又倉神社【金峯神社に合祀】
またくらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】宇奈具志神社 越後国 古志郡鎮座

   【現社名】金峯神社
   【住所】新潟県長岡市西蔵王2-6-19
       北緯37度28分0秒、東経138度51分1秒
   【祭神・又倉神社】大地主神 (配祀)須勢理比売神 沼奈川比売神
   【例祭】11月 5日 王神祭
   【社格】旧県社兼郷社(金峯神社)
   【由緒】和銅年間(708−15)楡原の地に勧請
       正平7年(1352)風間越後守北朝方と藏王堂に戦う
       永録3年(1560)三島郡西越庄矢田村に遷
       更に高志郡大島庄川崎郷又倉神社の境内に遷した
       文禄3年(1594)神領十八ケ村、七二五石六斗八升
       慶長3−15年間に一〇〇石に減ぜられた
       慶長16年(1511)松平忠輝より寺領三〇〇石
       元和年間(1615−24)旧記焼失
       正徳3年(1711)社地崩壊のため現在の地に遷祀
       明治4年神佛分離によつて藏王権現(別当安課寺)を現社名に改称
       明治6年5月県社兼郷社
       明治40年12月19日社殿炎上
       明治41年神饌幣帛供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】高志郡大島庄川崎郷に鎮座していた
        正徳3年(1711)社地崩壊のため現在の地に遷祀

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 金峯神社
   【社殿】本殿権現造瓦葺
       幣殿・拝殿・神庫・齋館・手洗所・社務所

   【境内社】

又倉神社は金峯神社の境内社とされているが現在社殿はなく金峯神社本殿に合祀されている。
この御祭神常は社殿に鎮座せず古志。三島郡の頭人に巡幸せらる 四体の御神体が4つの区域に巡り給う (上条王神・中条王神・下条王神・川西王神)維新に至り巡幸の儀廃止され 御神霊相殿に鎮座坐します。
又倉神社の王神祭儀は古代儀式にして全国に類を見ない。昭和36年3月新潟県無形文化財に指定されている。


金峯神社

中越総鎮守
金峯神社由緒略記
鎮座地 新潟県長岡市西蔵王3丁目1番地5号
御祭神 金山彦命(金に関するもの・鍛冶鉱山守護の神)
由緒
「古代」元明天皇の和銅2年(709)年4月勅願に依り北国鎮護の為大和国吉野(現奈良県吉野)の蔵王大権現に模して越後古志郡楡原(現栃尾市岩の原)に勧請した大伽藍を建立し寺院数ヵ寺三尺坊を始め三十八坊僧徒山伏修験者数千を有したと伝えられその勢力は北陸より奥州にまで及んだという 後に蒲原の武将と戦い大伽藍寺院焼失し僧徒仏体を守護して三島郡矢田村(現与板町矢田)に隠遁する 
「中世」仁治3年(1242)年 中越の中心地として栄えていた又倉神社(王神様)に合祀して神仏習合の祭祀となる離散の信者は集まり蔵王の勢力増すと共に又倉の名称は次第に変わり蔵王堂 蔵王となる。
南北朝時代に至り蔵王堂は両軍紛争の焦点となる 最初北朝方に属す後醍醐天皇の第8 王子一品宮宗良親王(天台座主) は三島郡王番田(現長岡市王番田)まで進駐し交渉せし結果南朝方に入るも僮かに再び北朝に属す 合戦数度北朝勢力増大し越後全域を支配下に治めた 当時全国行脚する六十六聖(66部の教典を66カ国の霊場た奉納して回国する納経僧)が多数当社を訪れたこと また中世小説「もろかど日記」によれば善光寺出羽三山 比叡山 熊野などと共に越後蔵王堂の名がある 当社が越後を代表しかつ全国的に名の通った霊場であったことがわかる
上杉家領有の折り 当社は天台宗から真言宗にとなる 時の領主の庇護を受けて発展を続けた 堀直寄公平方原に築城(兜城)の際蔵王門前町を移住する 現長岡市の中心部の本である
「近世」江戸時代に至り徳川家康公に仕え幕政に携わった慈眼大師天海僧上の強い要請により当社は再ぴ天台宗に変わり寛永2年(1625)東叡山寛永寺(東京上野)建立するやその附庸となった 寛永寺は比叡山を意識したもので 比叡山の第一末寺は大和吉野の蔵王権現で寛永寺の第一末寺は越後の蔵王堂である また蔵王堂城跡に代官所を設け執務せられ 古志・三島をはじめ80ヶ町村の中越総鎮守となった 三代将軍徳川家光公特に当社を崇敬せられ 御朱印地300石・王簾又牧野家より黒印地40余石寄進せられる 坊屋敷十三坊社家六軒あり
「近代」明治維新に至り神仏分離の指命を受け神祇と決し社号金峯神社 祭神金山彦命と定め 新潟県初の県社に列せられる 明治4年(1871)大小区制施かれ第一小区村社蒼柴神社 第二小区村社平潟神社 第三小区村社八幡神社へ氏子分離となり 同6年県社兼十五・十六大区郷社に列せられる
同40年12月前殿より出火 社殿悉く炎上する 翌年神饌幣帛供進神社の指定を受ける 大正2年(1913)現社殿建立 昭和21年社格廃止 宗教法人となる 

蔵王堂城  城の発生不明北朝の頃は土城のみ 長尾新次郎為重(上杉謙信の叔父)築城するという 歴代城主は長尾秀景 長尾為重 丸田周防 松川修衛 堀親良 山田頼賢 諏訪頼隣 堀直寄 牧野忠成 寛永寺等

流鏑馬神事
源義家公奥州阿部氏討伐の折り当社に祈願奉納 能く射手の功を成しにより始まると言い伝える 代々国司又は領主この流鏑馬を勧められしを以て この祭り(例祭)は国祭とも天下祭とも称す 近世上杉輝虎 景勝を始め歴代領主祭馬12匹鳥毛槍100筋警護士卒差し出される 又長岡町内より傘鉾18差し出され盛大に執行せらる 維新後は社入金現今氏子崇敬者の協賛により執行 

境内神社
又倉神社 (王神様)(医薬・温泉・縁結び・国土守護・武徳神) 
御祭神 大地主神
妃   須勢理比売神
妃   沼奈川比売神
創立年代不詳延喜式に記載の神社(式内社)という 宇奈具志神社の別名である 御祭神大地主神は別名大国主神 福徳円満の神にして御在世中当地方に巡幸し給い信濃川での漁業の技 農業の技及ぴ酒作りの方を授け給うと伝わる その感謝により毎年王神祭には信濃川産の鮭を奉り米12俵 酒を枠樽に入れ奉る例しである
この御祭神常は社殿に鎮座せず古志。三島郡の頭人に巡幸せらる 四体の御神体が4つの区域に巡り給う (上条王神・中条王神・下条王神・川西王神)慶長18年(1613)以後の頭人名簿が現存する 維新に至り巡幸の儀廃止され 御神霊相殿に鎮座坐します 王神祭儀は古代儀式にして全国に類を見ない 昭和36年3月新潟県無形文化財に指定され同38年6月県教育委員会 文化財委員会より祭儀を伝承し来りし故を以て表彰される 

八幡神社
御祭神 誉田別命
当社の目代であった門田伊予は与板藩より来た者であるが 与板にて信仰していた八幡神社を当所にて祭祀し 別当亮寛の折り東叡山に申し出て末社の列に加えられた

日枝神社
御祭神 大山積神
比叡山山麓坂本の日枝神社と同様 天台守護の神として勧請されたものであるが創立年代不詳

秋葉神社
御祭神 火産霊神(防火の神)
蔵王権現が栃尾市楡原に鎮座していた時に衆徒三尺坊僧正不動行法を修め 延暦2年(783)10月24日行を成し遂げ 降魔之異相を現し 飛行迅速神変自在を得 この時「若しわが名を称えれば聲に従い 火災盗難の災禍を除く」と自ら誓われたという
これにより秋葉権現を楡原に造営安鎮し 蔵王権現がこの地を離れた後も衆徒般若院を別当として供相十二坊と共に残っていたが天文20年(1551)上杉家の所領の節 別当坊中残らず没収され栃尾常安寺の附属となった 毎年同社の祭礼には常安寺の申し出により蔵王社家は見附熱田の小丹生神社 石地の石井神社社家を連だち神事舞を執行った 
寛保3年(1743)2月寺社奉行山名因幡守の勤役中遠州の秋葉権現と栃尾の秋葉との本末之論争が起こり 当社の口添えにより栃尾秋葉は三尺坊の行法成就の地とされ 遠州秋葉は出生の地とされ両所に祀ることとなり 栃尾秋葉社は古来之根元 遠州は今之根元と称することとなった 楡原を去る時以来奉祀され 天明までは奥之院内に安置されその後山王社 現在は本殿に鎮座されている

稲荷神社
御祭神 倉稲魂神 (生命の祖神・五穀成就・殖産興業・幸福守護の神) 
天女形で右手に鍵を持ち左手に宝珠を掲げ通常の稲荷の御神体とは異なっているという  創立年代不詳

長岡各町産士神社合祀霊
第二次世界大戦終了の後戦災復輿の行事長岡祭執行されるについて鎮座せしむ

蔵王里神楽
中越地方では出雲流の神楽が盛んだが 当社の神楽はこれらの中で最も古いといわれ宝暦3年(1710)の神官 海津出雲政泰の名がある神楽面2面現存し 正徳年間(1710年代)に現在の神楽を取り入れたという 舞は宮清 御饌棒 一人三方 四人玉 太刀 船戸 盆 四人榊 鳥形 白青 鏡 一人鉾 事代主 弓 四人鉾 国平 天川 太平 大榊 鎮鉾 手杵 稚児 簸之河上 剣之白波 岩戸開の25番からなる 現在蔵王里神楽保存会によって執行される

蔵王の大欅 
当社の御神木として境内西方にまします 長岡市指定文化財に指定され樹齢約700〜800年

社領
王朝以来の盛時3000石と伝えられるも不詳 文録3年(1594)の記録に蔵王村を始め18ヶ町村720石余とあり 享保13年(1728)に至り朱印地黒印地を含め合計約1030石余付与せられたが 明治4年返上

社殿 本殿5坪 拝殿75坪
境内地 9047坪
神紋 五七桐

由緒書



又倉神社(王神様)

金峯神社(蔵王権現)と又倉神社(王神様)
社伝によれば金峯神社(明治時代まで蔵王権現)は和銅二年(709年)大和吉野の蔵王権現を古志郡楡原(栃尾市楡原)の地に勧請したのがその創建と伝える。秋葉三尺坊をはじめとする僧兵・修験者数千人の一大勢力であったが、戦に敗れ三島郡矢田に隠遁した。その後仁治三年(1242年)この蔵王(当時は又倉村)の地に遷座したが、その折又倉村の産土神又倉神社と合祀し、蔵王権現の信仰が盛んになるにつれ、又倉神社は蔵王権現の境内社と位置づけられ、又倉村の地名も蔵王村へと変わっていった。
又倉神社は延喜式内社「宇奈具志神社」の論社とされ、信濃川沿いの州浜地に現在も幾社か鎮座する。この地ではその御神威をもって「王神様」と称えており、未開の地であったこの地に農業・漁業・酒造などの技を伝え長岡の里を興されたという。その創始は古代に遡るとされるが、一雄二雌の御神体を一社とし、その同一神が四社ある異風を遺し、頭屋制度のもと民間に巡祀される祭儀「王神祭」が行われてきた。
王神祭の変遷
古来より連綿と続く王神祭も神仏習合の影響を受け複雑多岐な内容に次第に発展し、また蔵王堂城の支配の下影響範囲も拡大し、江戸時代には当社を中心し二里から三里内のおよそ100の町村が祭儀の執行に携わつた。
四社ある御神体を四つの地域において巡祭し、御神体を賜る頭人(持高三十石以上の者)は足掛け三年間、租税は免除されるが三度の百人の客を招き大饗を行い、月四回の礼拝を義務付けられた。四つの地域とは、
第一の上條王神(俗に太郎殿)町数13村数17 計30
第二の中條王神(俗に次郎殿)町数9村数11計20
第三の下條王神(俗に三郎殿)   村数15 計15
第四の川西王神(俗に乙子殿)   村数33 計33
頭人は一年目に雄神・雌神一対を頂き住居にて奉仕し、二年目に雄神のみを神社に返還する。そして三年目に雌神を神社に返還するのであるが、この三度の折に大饗を行った。
中越の総鎮守と崇められ、信仰面において強い影響力を誇ってきたこのお社も明治時代に至り神仏分離の命を受け蔵王権現から金峯神社と定められ、そして廃仏毀釈の世情の中で氏子分離となり100近くの町村から僅か蔵王村のみを氏子とする指令が出された。祭儀における仏教的要素は排除され頭人制度は氏子分離のため廃止され、また戊辰戦争の混乱の後、金銭的制度的に王神祭を執行することが困難になった。
明治時代の中頃より祭儀の一部のみを執行するようになった。これは頭人が二年目に行う「正常行事」を執行するものであるが、これを伝え現在に至るものである。

旧公式HP



金峯神社

由緒について
金峯神社(きんぷじんじゃ)は近隣の方々には「蔵王さま」と呼ばれておりますが、明治時代までは蔵王権現(ざおうごんげん)と称し、神仏習合の特色が強い霊場でした。
古代
和銅2年(709年)4月元明天皇の勅願により、北国鎮護のため大和国吉野(奈良県吉野)の蔵王権現を古志郡楡原(新潟県長岡市楡原 現在蔵王社鎮座)の地に勧請したのがその創建と伝えております。大伽藍を建立し、寺院数ヶ寺、修験者秋葉三尺坊を始め三十八坊僧徒・山伏修験者を数千人有する巨大な勢力で、その勢力は北陸から奥州まで及んだという。秋葉三尺坊はこのあと信州戸隠にて修業の後、遠州にて一大修験勢力を築いた(秋葉山本宮秋葉神社)。後に蒲原地方の豪族と戦い破れ、大伽藍寺院は焼失し、仏体を守護して三島郡矢田(新潟県長岡市矢田 現在神明神社合祀)に隠遁する。
中世
仁治3年(1242年)当時越後中越地方の中心として栄えていた又倉村(新潟県長岡市蔵王)の地の産土神又倉神社と合祀して神仏習合の祭祀となった。離散した信者は集まり、蔵王権現の信仰が増すにつれて又倉村の地名は次第に蔵王村へと変わる。南北朝時代には南朝北朝両軍の紛争の焦点となり、神社隣接の蔵王堂城の勢力は北朝に属すが、宗良親王は三島郡王番田(新潟県長岡市王番田)まで進駐し、交渉した結果南朝に入るが、再び北朝に入る。合戦後北朝方が越後全域を支配下に治めた。
上杉家領有の折、天台宗から真言宗になる。蔵王堂城主堀直竒公は平方原に城を移築した。これが長岡城であり、その際蔵王門前町を移住した。現在の長岡市の中心の始まりである。
近世
江戸時代に至り、天海僧正の強い要請により再び天台宗に変わり、寛永2年(1625年)東叡山寛永寺(東京都上野)が建立するとその附庸となった。またこの地を天領とし代官所を設け、当時「(長岡・三島・古志)八十ヶ町村の総氏神」、「越後中越地方の総鎮守」などと崇められた。三代将軍徳川家光公は特に崇敬厚く、御朱印地三百石・御簾を寄進され、また長岡城主牧野家は家督相続の折必ず参詣された。当時坊屋敷十三坊、社家六軒あった。
近代
明治維新に入り神仏分離の指令を受け、神祇と決し金峯神社(きんぷじんじゃ)・御祭神金山彦命と定め、新潟県最初の県社に列する。明治4年(1871年)大小区制が施行されると共に氏子の大半を分離される。明治40年火災により社殿炎上するが、大正2年建立。昭和21年社格廃止される。平成15年に火災により拝殿全焼し、翌16年には中越大地震の大被害を受けるも平成17年に拝殿竣工。平成21年御創建1300年祭を斎行する。

公式HP



金峯神社

■金峯神社(きんぷじんじゃ)は長岡市の蔵王の森に鎮座する旧県社である。近在の人々には古くから「蔵王さま」と呼ばれて親しまれる。
■宮司の桃生保男(ももお やすお)さん(77)は、県神青協会長や神社庁祭式講師、長岡支部長などを歴任された本県神社界の功労者である。編集子(栗田)なぞは、神社庁入庁以来、何かとお世話になったので、取材という名目で久しぶりにお目にかかれるのは楽しみでもあり、(叱られるかもしれないが)気楽でもあった。
 しかし取材直前に下調べを始めた途端頭を抱えた。由緒も年中行事も多彩で奥深く、とても小欄では紹介し尽くせない。ここは部分的な紹介でご勘弁戴く他ない。
■和銅2年(709)元明天皇の勅願により、北国鎮護のために大和国吉野(奈良県吉野)より蔵王権現を古志郡楡原に勧請したのがその創建と伝えられる。一時は大伽藍を擁し、山伏修験者数千人(!)を有する巨大勢力を成したという。
 やがて仁治3年(1242)、又倉村(現在地)に遷座し、産土神たる又倉神社と習合する。又倉村は当時中越地方の中心として栄えていたが、蔵王権現の信仰が弥増すにつれて、又倉神社は蔵王権現境内社の位置付けとなり、地名そのものも又倉村から蔵王村へと変わっていく。
 江戸時代になると、ここ蔵王の地は天領となり、代官所が設けられる。当時蔵王権現は「(長岡・三島・古志)八十ヶ町村の総氏神」「越後中越地方の総鎮守」などと崇められた。最盛期には坊屋敷が13坊、社家が6軒あったというから相当の隆盛を誇っていたというとがわかる。
 明治維新後の神仏分離によって蔵王権現(蔵王堂)は神祇と決し、金峯神社と名称を改め、御祭神も正式に金山彦命と定められた。又倉神社の御祭神である大地主命、須勢理比売命、奴奈川比売命は現在相殿にお祀りされている。
■同神社の年中行事の中でも特に有名なものに、7月15日の例祭に併せて行われる勇壮な流鏑馬(やぶさめ)神事と11月5日の王神祭(おうじんさい)がある。
 王神祭は秋の収穫に感謝する神事だが、次第の中に「年魚行事」と呼ばれる大変特殊な行事を含む。これは信濃川で獲れた鮭を神前で斎主が直接手を触れずに2本の鉄箸と包丁で3枚におろし鳥居の形に整えるのである。毎年、百人程の参列者が真剣に見守る中で厳かにこれを行う。
 宮司さんに愚問を投げかけた。「やはり毎年のことでも調子が良い時と手間取る時とあるものですか」「うん、少し時間がかかることはあるね」
 「王神」とは、又倉神社の御祭神のことを指し、その御神威を称えてこのように呼称したのだとされる。この神事の古式の様は他に類を見ない。昭和36年には新潟県指定無形文化財に指定されている。
■神社は平成15年5月に不審火により拝殿を全焼している。この時、別棟になっている本殿は類焼を免れたが、翌平成16年に襲った中越大震災は、本殿基礎部分にも被害をもたらした。しかしこうした困難を氏子崇敬者と共に乗り越え、平成17年に社殿修復を完工。平成21年には御創建千三百年祭を賑々しく斎行した。
 殊に平成21年7月に斎行された御創建千三百年祭に当たっては、祭儀は勿論、地元の蔵王里神楽保存会や蔵王稚児舞の会による舞の奉納、県神青協女性会員奉仕による浦安の舞、長岡フルートアンサンブルや長岡雅楽愛好会による演奏、二田物部神社神楽舞保存会による神楽等々、実に盛り沢山の内容が神前に奉納された。
 平素からこうした様々な企画・準備に奔走しているのは、宮司のご子息で同神社禰宜の桃生鎮雄(しずお)さん(41)である。宮司さんとしてはさぞ心強いに違いない。さりげなく問いかけると、「そうね、この頃はもうみんなお任せという感じかな」と応じつつ柔和な笑顔を見せた。

新潟県神社庁



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