鮫ケ尾城跡の北の谷に「宮沢」という地名がある。かつてこの付近に鈴座したといわれている。現社地への遷座の時期・事情は不明。 里宮が内川の東岸、新井市飛田字屋敷添にあり、拝殿が建つていたという。今日、耕地整理で水田となっている。 北方に百両山竪穴群(雪森)。観音平古墳群(宮内)、南方に天神堂古墳群(天神堂)がある。これらの古墳を築造した豪族が神社を奉斉したのであろう。 |
由緒 延喜式内斐太神社御由緒 御祭神は八千矛神又御名大国主神、積羽八重事代主神(矢代大神)、健御名方神(諏訪大神) 此の大神等が御鎮座されし其の源は遠き神代にして、大国主神が此の大八洲の国を経営されし時、我が越の国に行幸され此の邊りを国中の日高見の国なりと仰せられ御滞留なされ、沼河昆賣の神を御娶りまして、健御名方の神を居多の浜の西なる躬論山(今の岩戸山と云う)に生み給う。大国主神、此の地経営の時、御子健御名方の神と田畑・山野・道路を墾き給い田畑を作る業を教え給う。事代主神は、沼・河川を治め水路を開き給う。 大国主神が大御功績をおへまして我魂を此の地に鎮めんと御衣を脱ぎ御劔、御鏡及曲玉と共に残し給へるを御魂として鎮めまつりたるを斐太神社と稱へしなり。 又事代主神は河川の鎮守として岡沢山の奥に御魂を鎮めさせ給へるを矢代大神と稱へ奉る。 健御名方神は山・谷・野の鎮守として青田村の奥山の頂上に御魂を鎮められしを、南方明神と稱へ奉る。斯くて大同2年4月3日、由緒ありて矢代大神及南方明神を山の社より当御社に御遷座なし、例年4月3日、現在5月3日御神事仕えまつる。 其の後延喜5年(1070年前)、醍醐天皇の詔により左大臣藤原時平が「式」の編纂を命ぜられ、延長五年「式」の全五〇巻が完成した際、その中の「神祇式」神名帳に頚城郡宮内鎮座斐太神社と記載された。斯く神名帳に記載された神社を延喜式内社と呼び朝廷から特別の待遇を受けたのである。 頚城郡には関川の東に五社、川西に八社あり。之を八社五社と謂う。 上杉氏の時代、当社背後の鮫ケ尾城築城の際此の郷鎮護の総社と定め一町百二十ケ村鎮座の祭神をも合わせ祀り宮内、雪森、籠町、乙吉、十日市、飛田、稲荷、青田の八ケ村を神領と定め幣帛を献じ常に崇敬せられたのである。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
斐太神社 祭神 斐太神社 ●大国主命(大黒さん) ●事代主命(えぴすさん) ●建御名方命(諏訪さん) 雁四神社 ●伊邪那岐命 ●伊邪那美命 祭日 3月3日(火祭・春駒踊) 5月3日(斐太神社春季大祭) 5月4日(神輿渡御) 8月20日(雁田神社例大祭) 11月3日(斐太神社秋季大祭) 毎月1日15日(月次祭) 由緒 斐太神社は第60代醍醐天皇の時代に編集された延喜式(927年)に記される由緒正しい神社で、古く朝廷から特別な格式上認められ幣帛(おくりもの)が奉納された古い神社です。 斐太神社には末社が216社余もあり、その数は日本一です。神事としては3月3日の火祭が有名で消火の意の水・水草・土・竹で作った杓と桶を奉納し、1年間の無火災を祈ります。その後これらの供物を三方(四角い台)にのせ、近くの川まで運ぴ、川の神々に棒げ、て同様無火災を祈ります。 社頭掲示板 |