菅原神社
すがわらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】菅原神社 越後国 頚城郡鎮座

   【現社名】菅原神社
   【住所】新潟県上越市清里区菅原108
       北緯37度4分27秒、東経138度19分37秒
   【祭神】天穗日命 菅原道真 天神地祇
   【例祭】8月18日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】天武天皇3年(675)創立
       文武天皇3年(699)とも伝わる
       貞治5年(1366)上杉左近將監より黒印地二〇〇石が寄進
       天正年中(1573)雷火のため焼失
       慶長9年(1604)10月25日寄進
       慶長14年(1609)10月9日堀直政二石五斗寄進
       元和8年(1622)4月19日松平忠昌寄進
       明治5年3月18日火災焼失
       明治5年4月郷社
       明治6年12月村社
       昭和14年造営
       昭和18年8月7日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】創立当時から現在地にあつたらしい

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「菅原天神」と称していた
   【公式HP】 菅原神社
   【社殿】本殿
       幣殿・拝殿

   【境内社】稻荷社・諏訪社

櫛池川が昔、神社の南下を流れていたため、付近一帯には菅が群生していた。そのため菅原という地名が生じたのであろう。それが菅原道真と結びつき、更に菅原天神と呼称されるに至つたのであろう。元来、菅原神社と菅原道真とは無関係であつたと思われる。
神社境内に前方後円墳(県文化財)が一基、神社背後の岡嶺と呼ぶ丘陵上に約三〇基の円墳群がある。六世紀前後の古墳と推定されている。この地域一帯を支配した有力豪族が菅原神社を奉齋したのであろう。


菅原神社

管原神社は清里村大字管原字天神林に在り、本殿・弊殿・拝殿とも、神明造の社殿である。創立は天武天皇3年(675)にして延喜式神名帳に越後国頸城郡十三座の一つとして登載され、古くより管原天神と崇めめられている。
貞治五年領主上杉左近将監より黒印地200石を付与される。
天正年間に雷火により焼失、再建。
明治5年,三月消失、再建。
明治5年郷社に列す。
昭和14年8月 拝殿改築。
昭和18年七月県社に列す。

主祭神
天穂日命
名義は「高天の原直系の稲穂の霊力」であり、天照大御神と須佐之男命との誓約において、天照大御神の右の角髪に巻いた御統の珠からお生まれになった5男神の第二子

境内地は2.0ヘクタールの面積を持ち老針葉樹が茂り前方後円型の古墳や、縄文時代の炉跡等の史跡がある。

■史跡菅原古墳 
全長30m、後円部の直径18m、高さ1.8mで6世紀前後に造られたものとみられる。、6世紀頃、大和地方の中央から、この地方を開発し、新しい文化を普及するため、派遣された豪族の首長か、あるいはこれに匹敵するような地方豪族の首長の有力墓とされている。

■縄文時代炉跡
本村馬屋地内黒保は、縄文時代の遺跡として早くからこの地方で注目されていた。明治43年10月に東京大学教授「平井五郎」博士が調査し、多数の土器や破片を発掘した。同時に発掘したニ基の炉跡は当時の日本で最初の発掘という重要な遺構で黒保からここに移した。

由緒書



菅原神社

菅原神社は、清里村大字菅原字天神林に在って、古来上越地方の一宮として、君臨。
此の地の崇敬者の信仰篤く他に類を見ない。境内の敷地は2.0ヘクタール、老広■■が鬱蒼として昼猶暗く、建築様式は本殿、幣殿、拝殿供に神明造りである。
社歴は、天武天皇3年(大和時代)に創建し、延喜式神名帳に記載され、産土神として近傍数十ヶ村の崇敬を集めた。貞治5年、領主上杉左近将監より黒印地200石が付与されたが、天正年間の雷火により印状を焼失し廃社となった。その後、除地高14石で、その他社人の持高31石と諸役を免除されたが、明治9年に除地は返上した。領主代々の祈願所で、祭典の時には奉幣使差遣、幣帛料が献納された。明治5年社殿が炎上し、その後再建された。又、同年に柏崎の郷社に列し、昭和14年8月、拝殿改築、同18年8月7日県社に列し現在に至る。
祭神は天照大神の御子、天穗日命で、その後、菅原道真朝臣並びにその御子、道雄卿を配祀、更に、大字岡峰新田、元熊野神社祭神を明治41年6月24日に、大字■■もと十二社祭神、元八社祭神を大正元年11月19日に合祀した。
こうした由来を持つ当社には、五穀豊穣の祈願や、梅にゆかりのある道真公に学業成就を願い参拝人が絶えない。

社頭掲示板



菅原古墳群

菅原古墳群
所在地:中頸城郡清里村大字岡野町・菅原
指定:1952年県史跡
 岡嶺丘陵東斜面に分布する。丘陵の標高は79メートル。
 もと108基が確認されていたが、大半が開墾により消滅した。1960年の新潟県教育委員会の分布調査では北東部斜面の円墳30基と南端部の菅原神社境内の前方後円墳1基が残るだけであった。前方後円墳は全長30メートル、後円部径18メートル、後円部高さ1.8メートルで、後円部頂に横穴式石室の天井石と思われるものが露出している。円墳群は破壊が著しく、所々に河原石積みの横穴式石室の残骸が見られる。
 1909年には梅宮寿三郎・坪井正五郎等、昭和初期には斎藤秀平・小松芳春・後藤守一等による、計9基の発掘が行われ、竪穴式石室と横穴式石室から直刀・鉄鏃・鎧片・馬具・土師器・須恵器などが発見された。この竪穴式石室は羨道部に石を詰めた横穴式石室の玄室か、横穴式石室を模した後期の石室と考えられている。

http://www.nbz.or.jp/rekibun/iseki/sugawara.html



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