八坂神社
やさかじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】佐多神社 越後国 頚城郡鎮座

   【現社名】八坂神社
   【住所】新潟県上越市西本町4-2-25
       北緯37度10分24秒、東経138度14分29秒
   【祭神】須佐之男命 (配祀)建御名方命 大山咋命 菅原大神
   【例祭】7月23-29日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】元和4年(1618)6月2日永見志摩守寄進
       寛永2年(1625)松平越後守寄進
       元禄2年(1689)8月三社を一殿に合して諏訪神社と改称
       享保6年(1712)造営
       明治6年12月村社
       昭和3年八坂神社と改称。郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「三柱神社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・幣殿

   【境内社】秋葉神社・松尾社

社伝によると京都の八坂神社を勧請し創建されたという。
八坂神社、諏訪神社、日吉神社と称して各別殿に奉齋してきたが、元禄2年(1689)8月、これを一殿に合して諏訪神社と改称、更に昭和3年11月2日、八坂神社と改称した。
越後国府時代(平安中期)に始まったと思われる祇園祭は高田城開府以後も上越唯一の大祭として受け継がれている。


由緒

八坂神社略記
御祭神
建御名方命 須佐之男命 大山咋命
御由緒
昔は八坂社一座でしたが、後、諏訪社、日吉社を合祀しました。三ヶ所神社或は諏訪神社と称したこともありましたが、昭和3年に郷社に列せられ八坂神社と称しました。
また、三柱神社、俗称として八王子様といわれて現在に至っております。
八坂社(祇園社 八王子社)
八坂社は式内佐多神社であるという説もありますが明らかではありません。御祭神は須佐之男命ですが仏教との習合では牛頭天王ともされております。牛頭天王と竜女との間に生まれましたのが八王子(五男三女)であります。武勇、悪魔悪疫退散、商売繁昌の神様です。上越地方唯一の大祭である祇園祭は、八坂神社の祭祀であります。おそらくその始まりは越後国府時代(平安中期長元年中)あると思われます。以後歴代国司の崇敬厚く府中祇園社と呼ばれ武門の神としてあがめられました。高田庄城開府以来も領主はその威霊を仰いで祇園祭が行われていました。文書として祇園祭がはっきりしておりますのは、当社に伝わる元和4年(1618)の高田城主酒井忠勝の寄進状です。この内容は奉行永見志摩守より祇園神主にあて「殿様より恒例によって祇園会には御供米五石をやるからねんごろに国家安全を祈るように」というものです。これよりそれ以前から祇園祭が行われていたことがわかります。ではなぜ他に見られないような旧高田旧直江津両市にわたって祭典が行われていたのでしょうか。伝説では慶長19年(1614)直江津福島城の高田移転によって、直江津のほとんど全部の社寺が高田へ移りましたが、当社は移りませんでした。そこで当社の神主は初代高田城主松平忠輝に願いでて、朱印地をもらうかわりに高田の祇園祭を出張して行うことを許されたということです。そこで毎年旧暦6月7日、高田市中の神輿渡御を行い、七日間仮殿で国家安全、家運長久の祈願祭を執行し、十四日再び市中渡御、夜稲田より船で直江津に還御されたわけです。十四日の夜の直江津河口には「夜の荒川御神輿が下る、川は万燈の迎え船、祇園ばやしの笛や太鼓で、夜が明ける」と直江津小唄に歌われているとおり、この地方まれに見るお祭りであります。
諏訪社
天暦2年(948)の鎮座といわれ古直江の津の産土神です。元砂山村字諏訪の森の地内(現南小敷地内)鎮座でありましたが、元禄2年(1689)に八坂社に合祀されたといわれます。
日吉社(山王権現、日枝神社)
長元年中(1028年ごろ)の鎮座といわれ、元砂山村の産土神で文化年中(1803年ごろ)社殿焼失のため八坂社に合祀されたといわれております。
社殿 
本殿享保6年(1721年再建) 
拝殿天保14年(1843)十余年の年月をかけ完成
祭典 
春祭 4月27・28日、祇園祭 高田7月23日から26日 直江津7月26日から29日、秋祭8月27・28日

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



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