居多神社
こたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】居多神社 越後国 頚城郡鎮座

   【現社名】居多神社
   【住所】新潟県上越市五智6-1-11
       北緯37度10分0秒、東経138度13分14秒
   【祭神】大国主命 奴奈川姫命 建御名方命 事代主命
   【例祭】5月3日 例祭
   【社格】旧県社 越後一の宮
   【由緒】持統天皇御宇8月3日案下の官幣
       弘仁4年(813)従五位下
       貞観3年(861)従四位下
       承元元年(1207)親鸞聖人、越後国府に配流、居多神社に参拝
       貞和3年(1347)室町幕府より社殿修造費として、田井保三分の二の寄進
       観応2年(1351)越後守護上杉憲顕荒蒔保を寄進
       応永18年(1411)社領は頚城・刈羽・古志・魚沼・蒲原五郡にまたがっていた
       文明18年(1486)京都常光院尭恵は府中を訪れ、居多神社に参拝
       長享2年(1488)京都相国寺の僧万里集九は府中を訪れ、居多神社に参拝
       天文2年(1533)越後守護代長尾為景は内乱鎮定を居多神社に祈願
       永禄3年(1560)上杉謙信が居多神社に制札
       天正6年(1578)御館の乱で上杉景虎に味方し敗れ、花ヶ前家は能登・越中へ逃亡
       慶長3年(1598)上杉景勝が会津に移封、花ヶ前家帰国
       慶長4年(1559)春日山城主堀秀治より社領十三石
       慶長16年(1611)福島城主松平忠輝より社領百石
       慶安元年(1648)徳川三代将軍家光より社領百石
       元禄2年(1689)俳人芭蕉は奥の細道の帰途、居多神社に参拝す
       慶応2年11月社地・境内が崩壊
       明治5年5月郷社
       明治6年5月県社
       明治12年(1879)現在地に造営遷座
       明治35年3月18日火災で焼失
       明治40年3月13日本殿・祭舎・拝殿再建

   【関係氏族】
   【鎮座地】中頸城郡居多村字身輪山(現在の五智六丁目)に鎭座
        慶応2年(1866)社地・境内が海岸浸蝕で崩壊
        明治12年5月現在地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造
       幣殿・祭舎・神饌所・幌舎・拝殿・御札所

   【境内社】稲荷神社・雁田神社・乳母嶽神社

社名は「ケタ」とする説もあり、能登の氣多神社、越中の氣多神社と同様、「ケタ」神社で、祭神も大己貴命(大國主命)である。古代における出雲勢力の進出を物語つている。
社殿は中頸城郡居多村字身輪山(=岩戸浦山)に鎭座していたが、慶応2年(1866)社地・境内が海岸浸蝕で崩壊したため、明治12年5月現在地に遷座した。
居多神社の神主は花ケ前氏である。崇神天皇の皇子豊城入彦命の九世の孫宗麿が商長(あきおさ)首の姓を賜り、その五世の孫盛香は商長宿禰の姓を賜り居多神社の初代社務となった。以後、連綿として社務職を世襲し現代に至っている。


由緒

居多神社
越後一の宮
一、祭神
大国主命 奴奈川姫 建御名方命
一、祭典
例祭5月3日  大祭8月19・20日
居多神社は大国主命・奴奈川姫・建御名方命(諏訪神)を祭神とする式内社である。朝廷から弘仁4年(813)に従5位下を、貞観3年(861)に従四位下をたまわった。古代、越後国司の厚い保護をうけて栄えた。
承元元年(1207)、親鸞聖人は越後国府に配流となった。以後、建保2年(1214)、常陸国稲田へ旅立つまでの七年間、越後で生活した。その際、居多神社に参拝した。
南北朝の動乱が一段落した貞和3年(1347)、室町幕府から社殿修理費として田井保(中頚城郡板倉町田井)三分の二をたまわった。さらに観応2年(1351)、越後守護上杉憲顕から荒蒔保(中頚城郡清里村荒牧)保司分を社領としてたまわった。以後、越後守護上杉家の厚い保護をうけ、越後一の宮として栄えた。
戦国時代には、京都の文化人達があいついで越後府中(直江津)を訪れた。文明18年(1486)、京都常光院の僧尭恵は守護上杉房定の厚遇をうけ、至徳寺の塔頭最勝院を宿とした。滞在中、居多神社に参拝し、「天の原雲のよそまて八島もる神や涼しきおきつしほ風」と詠んだ。京都相国寺の僧万里集九も長享2年(1488)、府中を訪れ、居多神社をはじめ国分寺、安国寺など、府中の名所を見学した。尭恵、集九以外にも、たくさんの文化人が参拝したことであろう。
戦国時代、居多神社も戦乱にまきこまれた。天文2年(1533)、反長尾為景派によって社殿が焼かれた。そのため同年、為景(上杉謙信の父)は居多神社に内乱鎮定を祈願し、社殿造営を約束した。天正6年(1578)、戦国大名上杉謙信が春日山城で死去すると、養子景勝と景虎とが家督相続をめぐって争った。これが有名な「御館の乱」である。その際、居多神社は景虎に味方したため景勝軍の攻撃をうけ、社殿が焼かれた。神主花ヶ前盛貞・家盛父子は難をさけ、能登・越中を転々とした。慶長3年(1598)、景勝が会津(福島県)へ移ると、晴れて帰国することが出来た。翌4年、春日山城主堀秀治から社領十三石を寄進されたが、もはや昔日の面影はなかった。
江戸時代、幕府から高百石の御朱印地をたまわっていた。明治12年、海岸侵食のため現在地に遷座した。のち、火災にあって焼失し、仮社殿のまま今日に至っている。
居多神社略年表
弘仁4年(813)、朝廷から従五位下をたまわる。
貞観3年(861)、朝廷から従四位下をたまわる。
延長5年(927)、「延喜式」神名帳に記載された式内社である。
承元元年(1207)、親鸞聖人、越後国府に配流、居多神社に参拝す。
貞和3年(1347)、室町幕府より社殿修造費として、田井保三分の二をたまわる。
観応2年(1351)、越後守護上杉憲顕より荒蒔保をたまわる。
応永18年(1411)、居多神社社領注文によると、社領は頚城・刈羽・古志・魚沼・蒲原五郡にまたがっていた。
文明18年(1486)、京都常光院尭恵は府中を訪れ、居多神社に参拝す。
長享2年(1488)、京都相国寺の僧万里集九は府中を訪れ、居多神社に参拝す。
天文2年(1533)、越後守護代長尾為景は内乱鎮定を居多神社に祈願す。
永禄3年(1560)、上杉謙信が居多神社に制札を掲げる。
天正6年(1578)、御館の乱に際し、上杉景虎に味方したため敗れ、神主花ヶ前家は能登・越中へ逃れる。
慶長3年(1598)、上杉景勝が会津に移ったため、花ヶ前家は帰国す。
慶長4年(1559)春日山城主堀秀治より社領十三石をたまわる。
慶長16年(1611)、福島城主松平忠輝より社領百石をたまわる。 
慶安元年(1648)、徳川三代将軍家光より社領百石をたまわる。 
元禄2年(1689)、俳人芭蕉は奥の細道の帰途、居多神社に参拝す。 
明治12年(1879)、鸞聖人上陸の地の西方にあった境内が海岸侵食により崩壊したため、現在地に造営し、遷座す。
居多神社宝物 
居多神社古文書 上越市指定文化財、狛犬 上越市指定文化財
境内社 
雁田神社 祭神 高皇産霊神 懐妊、安産、夜尿症治癒、性病治癒の神です。
稲荷神社 祭神 倉稲魂命(宇迦之御魂命)
越後七不思議 
居多神社「片葉の芦」
片葉の芦とは芦の葉が一方にのみ向かってはえている芦のことである。親鸞聖人が越後配流のおり、居多神社に参拝し すえ遠く法を守らせ居多の神弥陀と衆生のあらん限りは と詠み、神前に供えて祈願されたところ一夜にして居多神社境内の芦が片葉になったという。今日、居多神社の境内に片葉の芦が群生している。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



居多神社

越後一の宮 居多神社
祭神 大国主命
奴奈川姫
建御名方命
祭典 例祭 5月3日
講社大祭 8月19日・20日
由緒 弘仁4年(813)に従五位下を、貞観3年(861)に従四位下を朝廷から賜った。延長5年(927)の「延喜式」神名帳に記載された式内社である。越後国司・越後守護上杉家・上杉謙信の厚い保護をうけ、越後一の宮として崇敬されてきた。今日、縁結び・子宝祈願の神として信仰されている。
宝物 居多神社文書・狛犬(上越市指定文化財)
親鸞聖人御旧蹟
親鸞聖人日の丸御名号・御詠歌
越後七不思議「方葉の芦」
境内社
雁田神社 祭神 高皇産霊神・神皇産霊神
子宝・安産の神
稲荷神社 祭神 倉稲魂命(商売繁昌の神)

社頭掲示板



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