布施川流域は新川東部では最も早くから拓けたところであり、阿古屋古墳群があり、古代には布勢駅のあつたところでもある。 この神社は大和王権の北陸進出とのかかわりで考えられている。それは祭神が布勢臣氏と考えられるからであり、布朝臣は大彦命の後裔とされている。 一説に布施川と片貝川の川中島に鎮座していたが、宝永5年(1708)6月18日の洪水で流失し芦弁寺がこの神社を引きとつたという。 現在も芦弁寺にあり、若弁寺雄山神社の境内社若宮神社に合祀という。 |
布勢神社 人皇27代継体天皇の時代、この神社を勧請し、布施爪大明神と唱へてゐたが、延喜年中布勢神社と改称した。布施郷の総社で、はじめは布施爪村の館といふ所に鎭座してゐた。それが寛文年中(1661〜73)に布施爪の中の段へ遷座した。神位は正一位で継体天皇の祈願所であつたが、天正年間(1573〜92)の上杉謙信の越中乱入の際に社殿ならびに古記録はことごとく兵焚に罹つてしまつたとの口碑がある。 神社明細帳 |