鵜坂神社
うさかじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】鵜坂神社 越中国 婦負郡鎮座

   【現社名】鵜坂神社
   【住所】富山県富山市婦中町鵜坂212
       北緯36度40分18秒、東経137度11分13秒
   【祭神】淤母陀琉神 訶志古泥神
       (配祀)鵜坂姉比咩神 鵜坂妻比咩神 大彦命
       (合祀)天照皇大神 豊受大神 誉田別大神 豊玉姫命 倉稻魂神 建御名方命 水波売神 天児屋根命

   【例祭】4月16日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】崇神天皇御宇、大彦命の勧請
       白雉2年(651)創立
       承和12年(845)9月従五位上「続日本後紀」
       貞観2年(860)5月従四位下「三代実録」
       貞観4年10月従四位上
       貞親9年2月従三位
       承暦4年(1080)6月10日天皇御体の御占
       康和5年(1103)6月10日天皇御体の御占
       源平合戦の頃、木曾義仲の兵火に焼失
       天正4年(1576)上杉謙信侵入焼失
       明治6年8月県社
       明治40年3月神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「鵜坂大明神」と称していた
   【公式HP】 鵜坂神社
   【社殿】本殿神明造銅板葺
       拝殿・手洗舎・社務所

   【境内社】

尻打祭の奇祭で知られた本神社は、約2,000年前、第10代崇神天皇の頃北陸地方を開拓した大彦命の勧請により創建され、奈良時代初期には高僧行基が24院七堂伽藍を建立し、万葉集にもその名が見えるなど、鵜坂神の神威は都にも聞こえていた。
尻打祭:平安時代から江戸時代まで行われていた 尻打祭は、婦女の貞操を戒める神事として日本5大奇祭のひとつに数えられ全国的に有名であった。この神事の起源は、正月に七草粥を炊いた残りの薪で女性の尻を打つと健康な子が生まれるという平安朝の公家の遊びが伝わったもので、安産、縁結ぴ、増産を願ったものと思われる。
 この祭りは明治初期から第2次大戦の終戦まで、氏子総代高柳氏の女馬をこれに用いる例であつた。大正ごろ高柳氏が村を去つたため、しばらく他の馬を代用したが、やがて廃絶した。


鵜坂神社

鵜坂神社
本神社は延喜式内の大社で神代第六代面足尊惶根尊
を御主神とし、鵜坂姉比咩神 鵜坂妻比咩神、亦大彦命を相殿として祀る。
此の地方は越の国開拓、婦負郡発祥地として早くから文化の開けた土地である。
平安朝には神階従三位に進められ、白河天皇・堀河天皇の御代に御体御ト奏により中祓を科せられるなど、古来朝野の御崇敬浅からず、越の大社といい或は、正一位鵜坂大明神と称し、近くは県社と仰いで時の盛衰はあったが、信仰には変りがなかった。
御神徳
面足尊・惶根尊は顔形がそなわり茎根が整えられる如く国土造成の夫婦祖神で、鵜坂姉比咩神・鵜坂妻比咩神は御神名の示す如く婦負郡発祥の女親神である。大彦命は四道将軍として北陸地方とくに越の国を開拓し、農耕を教え導かれた祖神である。
このような御神徳を称え奉って殖産興業の祖神・交通安全の守護神として仰ぎ、また答祭(尻打祭)の縁起により縁組安産の守り神様として敬まい親しまれてきたのである。
社殿
本神社は第十代崇神天皇の御代大彦命の勧請にかかり白維年間堂宇再建せるも衰頽せしを以て称徳天皇の御代僧行基勅を奉じ二十四院七堂伽藍を建立する。治承年間兵火により焼失し、源頼朝本堂を再建し、十ニケ村を社領に付し社頭漸く旧観を復したが天正年間上杉謙信の火難にあい、加えて神通川の転流の災など地くずれ坊舎離散して衰微するに至った。
大正3年御大礼に際し、旧鵜坂村は一村一社の議なり、県社鵜坂神社に合祠する事となった。
本殿昭和4年10月建設
神明造総檜造銅板葺
総建坪10.5坪
幣拝殿 昭和46年11月建設
神明造鉄筋コンクリート造り
銅板葺
総建坪40.6坪
宝物
画像 六歌仙
額面 正一位鵜坂大明神  光厳石鴦
壇の浦の合戦 山下守胤
本能寺の変 玉斎守八
利家初陣の図 北鎮正胤
鵜川立の図 古川雪嶺
尻打祭の図 馬堀喜考
楉祭(答太刀・尻太刀祭・尻打祭)
本神社には平安朝頃から行われた神事答祭は婦女の貞操を誠めるものとして日本五祭の一に数えられ、全国に有名を馳せていた。この神事の根因は増産の祈りから縁組や安産の願がこめられて行なわれたものと思われる。
  いかにせん うさかの森に 身はすとも
    しもととしより 君が答の数ならぬ身を
       俊頼
(元禄集)
油断して行くな鵜坂の尻打祭  芭蕉
あなこわや鵜坂祭の音にむち  其角
紅葉する顔なさましそ鵜坂寺  嵐雪
鵜坂寺
奈良時代より諸国に納経造寺の沙汰あり漸く神仏習合の風を生じ名神大社には別当寺をおき別当社僧を配し神前に読経祈念するに至った。本神社では称徳期に僧行基勅を奉じて二十四院七堂伽藍を建立し神域は輪喚の美を誇ったが其後数次の兵火と水害に遭い衰微し明治3年廃仏棄釈の厄に遇い鵜坂寺は七五世観実で廃絶し、今は僅かに社地の一部に昔時の面影を偲ぶのである。
無縫塔・五輪塔・石仏・梵字碑
家持の歌碑
昭和31年7月1日建設
越中国司大伴家持は天平20年国府を出て射水川を経て音川線或は水戸田線を通り姉比野(婦負郡)に入り大社鵜坂神社に詣で、郡衙の一夜の慰めに鵜飼を賞でた。明けて神通川を渡り遠く早月川辺りまで巡察されたのである。
歌碑と額面
  鵜坂河渡る瀬おほみこの吾が馬の
   足掻きの水に衣ぬれにけり
  売比河の早き瀬ごとに警さし
   八十伴男は鵜川立ちけり

由緒書



鵜坂神社と神馬の由来

当社には平安朝から日本五大奇祭の一つ楉祭(尻打ち祭)が行われ婦女の貞操を戒しめる祭として全国に知られていた、これは祭礼の日神官が参拝の婦女に男を知つた数を問い、その数ほど竜眠本の枝で女の尻を打つたもので女がもし数をかくすと直ちに神罰を受けるものとされていた。維新のとき廃止され女馬が代用されて縁組安産、増産を願う崇敬者から神馬としてあがめられていた。此度、当社合祀七十周年に当り遺風をしのび併せて、氏子崇敬者の家内安全子孫繁栄の起願を込め、これを建之する。
奉納者一同

社頭石碑



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