杉原神社
すぎはらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】杉原神社 越中国 婦負郡鎮座

   【現社名】杉原神社
   【住所】富山県富山市婦中町田屋2316
       北緯36度37分54秒、東経137度9分19秒
   【祭神】杉原神
   【例祭】4月10日 春季例祭 9月10日 秋季例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】大宝2年(702)6月創立
       天平2年(730)3月1日越ノ国社と勅定
       天平5年(733)勅使下向あつて正一位
       貞観5(863)8月従五位下
       明治41年3月村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】元来巨大な杉の木に宿った神
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       拝殿

   【境内社】

垂仁天皇の10年大彦命がこの地を順撫し、この地の大きな杉を祀る。その後小祠を立て祭祀する。後にこの杉が枯れたときこの杉で神像を作る(現存)。
杉原神社は黒田・田屋両社あるが、田屋を御旅所の意と解すれば、黒田の社をもつて本社とすべきかと思われる。
また辟田彦・辟田姫が黒田を開拓されたが、後、彦は姫を背負つて田屋へ移られた。黒田・田屋両地に杉原神社があるのはそのためだという。


杉原神座像

県文化財 昭和40年指定
崇人天皇即位10年大彦命勅命を受けてこの地を巡撫することになり、民に耕作の道を教えて下さいましたところこの地に悪病がはやり死者が多く命が大変心配してこの地方にあった大きな杉の樹を神と崇め供物をしてお詣りされました。悪病がなくなり人々は大変喜びました。人々はこの樹の下に小祠をたててお祭りし参詣しました。後この神樹が枯れたのでこの木で神像を刻み辟田川今の井田川のほとりに一社を創え辟田の宮といいました。その後聖武天皇の時代(701−759)に神名を木祖神と名づけられました。
当社のご神像は男神像を一木造りの杉材で刻んだ座像で堂々とした老人の姿であります。
製作の年代は県内では高岡市二上射水神社の男神像に次いで古く藤原前期の作といわれています。
婦中町教育委員会

社頭掲示板



杉原神社

当社は上古崇神天皇即位十年大彦命勅命を受けて此の地に玉跡を留め給い座置を定め民に耕作の道を教え給いし時に此の地に悪疫大いに流行し民死するも多し。命大いに之を憂え給い民に教えて此の地の巨木なる杉樹を神と崇め種々供御なして尊崇せしめ給いしかば悪疫止む。住民大いに喜び此の樹下に小祠を創立し神像を刻み砕田の社と称せり。後聖武天皇御宇天平2年3月10日当社をして越国社と勅定し給い神名を木祖神と下し給う。其の後度々変遷あるも住民子々孫々の崇敬篤く現在に至れり。依って昭和29年10月26日富山県文化財に指定されしを記念し之を建立せり。

社頭石碑



杉原神社

県指定史跡 木造杉原神坐像 (昭和40年10月1日指定) 平安時代初めに書かれた『延喜武』という書物の中に、朝廷公認の神社「式内社」として越中国婦負郡の杉原神社の名が記されています。同名の神社は、婦中町田屋の他に婦中町浜子と八尾町黒田にありますが、古い神像を伝えるのはここだけです。
この神像は男神の座像で、高さは90cmあります。一本の杉から刻んだ一木造という造り方で、常楽寺の国指定重要文化財木造十一画観音立像の彫刻法と共通しています。天神様のように丈の高い冠をかぶり両手で笏を持ち、胸まで垂れる豊かな頬ひげと顎ひげを付けたおごそかな面立ちが特徴です。平安時代の中頃に造られた大きな神像として珍しいものです。
言い伝えでは、大彦命がこの地を開拓した頃、悪病がはやり、人々は杉の巨木を神と宗めて祈りました。時が経ち、その神樹が枯れたため、それを材料にして神像を刻んだということです。
【杉原神社にまつわる言い伝え】
音、八尾町黒田から浜子、中島、田屋辺りには一面杉の森が続き、その中を埣田川(現在の井田川)が流れていました。そこに豊かな村をつくろうと杉原彦と咲田姫がやって来て、上流の黒田から開拓していきました。毎日一生懸命に励んだ甲斐ありみるみるうちに森は田畑に変わっていきました。しかし、そんなある日、咲田姫は重労働のため重い病気で倒れてしまいました。驚いた杉原彦は姫を背貫って薬草を求め、さまよい歩きましたが、田屋まで来た時、ついに姫は亡くなっでしまいました。杉原彦は妻の命を奪った悪の森を旱く田畑に変えようと決心し、頑張り続けて、とうとうそれを果たしました。この二人の神のおかげで今では立派な田畑が広がり、人々は豊なくらしができるようになったと伝えられています。

社頭掲示板



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