10代崇神天皇即位10年に大彦命が勅命を受けてこの地にとどまり耕作の道を教え給うたとき、この地に疫病が流行し、民死するもの多かった。命大いにこれを憂い給ひ、巨大なる杉樹を神と崇め、種々供御を為し尊崇されたところ悪疫止んだので、住民喜び、その後この樹下に祠を建て神像を刻んで祀り、「辟田(さくた)の社」と称した。 また辟田彦・辟田姫が黒田を開拓されたが、後、彦は姫を背負つて田屋へ移られた。黒田・田屋両地に杉原神社があるのはそのためだという。 |
杉原神社 杉原神社由緒書(古社取調書中より) 富山県婦負郡杉原村大字黒田字古國屋 当神社延喜式内社にして、古書に因るに祭神、木祖神、又の書杉原神と種々書説あり。由緒としては、 一、聖武天皇天平2年郷長小右衛門なるものあり。世々守護神として邸内に奉仕す。時に後病大いに流伝す。此に於いて郷民等神明の霊験あるを聞き小右衛門に請ふて一祠を建て衆人をして参拝せしむ。名付けて郷の明神と称す。其後上杉謙信越中侵略の際城尾の城主齋藤一鶴を攻む。一鶴明神祠内に陣し謙信馬を天神林に進め火を放ちて之を攻む。一鶴戦利あらずして遂に降を乞う。殿宇之れが為め兵奨に罹り其後再建して岩住村鎮座杉原大明神と称す。天和2年3月2日岩住村を分きて黒田、寺家、濱子の三ヶ村とし神社鎮座の地を黒田村と名づく。社領千五百三拾四歩を以て別当長久寺之れに奉仕し、元文5年火災の為メ再び社殿を失ひ文化5年現今の社殿を建築す。猶ほ社領五百三拾歩を有せしも明治維新の際上地せり。小右衛門一祠創立より今に至るまで千百有余年なり。 前出の「天神林」全景。現在も古戦場の跡地として祠が建てられている。 こちらは天神林の祠。かなり傷みがあるが、現在も黒田に鎮座している。位置は黒田の杉原神社の北東200m付近。「たけしま食品」豆腐工場裏。 杉原神社縁起歴史的考察 杉原神社は富山県婦負郡八尾町黒田3928(ねいぐんやつおまちくろだ)に鎮座する延喜式内社(村社)である。他にも田屋(たや)と浜の子(はまのこ)に同名の神社が存在するが、黒田のものが本宗と仰がれている。杉原家は明治以後この黒田と田屋の杉原神社に奉職する社家である。 当神社に遺るの社伝によれば、十代崇神天皇即位10年に大彦命が勅命を受けてこの地にとどまり耕作の道を教え給うたとき、この地に疫病が流行し、民死するもの多かった。命大いにこれを憂い給ひ、巨大なる杉樹を神と崇め、種々供御を為し尊崇されたところ悪疫止んだので、住民喜び、その後この樹下に祠を建て神像を刻んで祀り、「辟田(さくた)の社」と称した。のち、聖武天皇天平2年(730年)3月1日、この社を越ノ国社と勅定し給ひ、神名を「木祖神(久々能智神)」と下し給うたという。 また、別の古伝書によれば、文武天皇大宝2年(702年)6月創立といわれる。杉原野の開祖である杉原彦命、及び木祖神を郷長小右衛門なる者が杉原野守護神として己が邸内に奉斎していたが、この地方に疫病が流行するようになった。このため郷民がこの小右衛門に願い出てひとつの祠を建立し、この神を移して皆で参拝した。これを名付けて郷の明神と称されたが、のちに清和天皇貞観5年(863年)8月15日、越中国正六位上、杉原神に従五位下が授けられたという。 またもうひとつ別の古書によれば、杉原野に石窟を作って創立した社で、天平5年に勅使が下って正一位を授けられ、大和舞を奏して鎮座せしめられたという。 以上のように起源由緒は諸説合致を見ないが、元来巨大な杉の木に宿った神だったようである。田屋の杉原神社の御神体が立山杉(たてやますぎ)の一木造りであることからもうなずける(平安時代の作。穏やかな表情の老翁の姿である。県の重要文化財に指定)。また、疫病を抑えた神としても崇められていたというのも二説に共通している。歴史的に神社の起源がかなり古いとすれば、もともとは自然崇拝的な信仰が元であったと考えるのは妥当であろう。 さて、これとは別に、杉原彦と咲田姫(さくたひめ)の伝承が風土記としてこの地方に伝わっている。黒田の杉原彦(辟田彦)が咲田姫(辟田姫)と共にこの地を開拓(治水工事)された際に、十日も雨が続き途中洪水が発生した。このとき杉原彦と咲田姫は三日三晩通して田畑を水から守ったが、ついに咲田姫は力尽きてその場にばったり倒れてしまった。杉原彦は疲れきったからだで咲田姫を背負い、一人で田屋の郷に運んで看病したという。これにちなんで今でもこの地域一帯を「婦負の里(ねいのさと)」と呼ぶ。冒頭の住所でもわかるように、現在二町一村を含む「婦負郡」として富山県のほぼ中央の平原を占めている。 現在黒田の杉原神社の主祭神としてまつられている「杉原神」はこの杉原彦命(辟田彦命)と、先に述べた木祖神、すなわち久々能智神とが融合したかたちになっている。おそらく元来の木祖神のところに、功労者である杉原彦を併せてまつったものと考えられる。咲田姫の方は田屋の杉原神社に杉原彦と共にまつられていることになっているが、わざわざ夫婦仲の良い二神を分けて祀るなど考えにくく、現在も二社共に夫婦二神が祀られていると考えるのが妥当であろう。 冒頭にも述べたが、現在杉原神社は三社ある。このためどれが延喜式で指定された社なのか、今でも黒田説と田屋説に分かれている。文献も黒田とするものと田屋とするものとがすっぱりとわかれている(浜の子を指す文献はひとつしかない)。しかし、「たや」という地名を「旅屋」の縮まったものと解すれば本宗は黒田ということになる。実際の社も黒田の方は杉の老木が生い茂っており、樹齢千年を越える樫の木などもあり(現在は枯失)、古社の風格充分であるが、田屋の社は(度重なる水害のため)閑散としている。いずれにしろ、黒田の社と田屋の社はわずか数キロしか離れておらず、当時の歴史的背景を考えると、一地方豪族が氏神として領地内に祀っていたのではないかと思われる。であるとすれば、別にどちらでも問題はないと思われるが。 このように杉原神社の歴史は比較的古い。社家としての杉原家は明治以後は現在の宮司で4代目であるが、別当の時代なども含めて世代を追うと、現宮司で九〇世目になるという。古くは隣の浜の子村の野上氏が神職として奉職していたが、江戸時代寛文年間から真言宗長久寺(ちょうきゅうじ)の僧が別当として奉仕した。江戸徳川幕府の勢力が確たるものとなり、寺請制度が地方にも浸透してきたのが背景であろう。のち、享保年間に神職の野上氏が移転したため、僧のみが奉仕するようになった。明治になると、僧は還俗して杉原氏を称して神職となり現在に至る。(ということになっているが、実際には僧は還俗せずに養子をとって社家として後を継がせたらしい。) さて、今日現在の黒田の杉原神社であるが、御祭神が杉原神の他に、相殿神として四柱ある。水分神、誉田別尊、建御名方神、菅原道真公である。どれも明治以後、合祀されたものである。このあたりのことを記した文献が現在見あたらないため詳しいことはよくわからないが、明治時代末から大正時代にかけて行なわれた神社整理の影響であろう。ただ、水分神に関しては、以前より境内地内にあった祠を合祀したものらしい。おそらく辟田彦辟田姫の伝承もこの地方の治水に関するものであるから、当時から末社として祀っていたのであろう。 最後に黒田の氏子数は約350戸、田屋は約40戸である。例祭は黒田が4月17日と11月23日、田屋が4月10日と9月10日となっている(いずれも昭和63年現在)。また、黒田の社は昭和60年11月に新築された。神殿は流造(天保14年建造)、拝殿は神殿を覆う形式の白木の権現造である。 参考文献: 『八尾町史(上巻)』 杉原節雄編部 『杉原大明神記録』(江戸中期) その他、杉原神社古記録 公式HP |