熊野神社
くまのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】熊野神社 越中国 婦負郡鎮座

   【現社名】熊野神社
   【住所】富山県富山市婦中町中名851
       北緯36度38分32秒、東経137度10分1秒
   【祭神】伊弉册尊 事解男神 速玉男神
   【例祭】4月20日 春祭 8月25日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】承久元年(1219)には立山の光明坊林海はじめ時宗系の僧徒も奉仕
       応仁年間(1467−69)京の神祇管領吉田神社から神官下向奉仕
       永禄年間(1558-70)兵火に罹つた
       寛永(1624頃)以來藩主前田家累代保護
       宝永3年(1704)社殿を造営
       宝永7年(1708)庚寅の年社殿を造営
       明治6年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】もと立山山麓にあつた
        その後現在地へ遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「熊野神社」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿・手水舎

   【境内社】

往古この地を開発した出雲民族が郷里において崇敬していた八雲の熊野大社の神を祀ったと記されている。
佐伯有若左衛門有基の子有頼が立山を開いた折、立山山麓に創建して熊野大神を祀つた社で、来迎寺の住僧が代々社僧として奉仕したという。中世、住僧光明坊が上京して法然に帰依し、浄土宗に改宗、立山山麓から婦負郡萩島村に寺を移した際、社も現地に移し、爲成郷十八力村の総鎭守とあがめ、爲成郷熊野権現と称した。


由緒

延喜式内為成郷十八ケ村熊野神社由緒記
熊野神社は、伊奘册尊、速玉男命、事解男命の三柱を祀る。平安時代初期に編修さけた「延喜式」「神名帖考証」「神祇志」に当熊野神社が延喜式内として登録されていることから、奈良時代に島根から日本海を舟で北上してこの地、為成郷(中名、蔵島、持田、萩島道島、堀、新屋、袋、板倉、砂子田、坪野、添島、清水島、地角、海川原、為成新、道喜島、十五丁の十八ケ村)に移住し、開拓したといわれる、出雲民族が郷里において崇敬していた熊野大社(今も出雲八雲村に鎮座)の祭神であります伊奘册尊、速玉男命、事解男命の三神を祀って、創立されたものと考察されます。住古より延喜式前創建された古代神社の大社として熊野大権現と申し上げ為成郷十八ケ村の産土神として栄え多くの社家、社僧が奉祀し、鎌倉初期の承元元年に立山の光明房林海を始め北条時宗系の僧徒も奉仕したと伝えられ、更に応仁年間(約五百年前)京都の神祇管領吉田神社よりも神官が下向奉仕したという。永録年中上杉謙信越中乱入の節、兵火に蒙りて伝来の創立由緒記等古記類と共に大社殿(第一の鳥居が添島地区にあり本殿は現在の粕塚に位置した、伽藍の大社殿)が焼失した。寛永年間以来領主前田家累代の信仰厚く、宝永3年坪野村若林源左衛門の尽力により、社殿を造営、古式の祭典をも復興することとなった。宝永元年秋為成郷内に悪疫が流行し、当時の豪農で肝煎職であった坪野村の若林源左衛門の息子と召使の者が相次いで病気にかかった。その時為成郷内の各村々の人達が熊野神社の祭事を怠っており、神が怒り給うのである。為成郷肝煎責任者である汝、若林源左衛門は直ちに村々の人達と相談して、祭事を復興する様にという熊野大神の託宣があった。そこで源左衛門は私財を投じて祭りを行なったところ悪病はたちまち退散し、豊作に恵まれた。そのことがあって為成郷内の氏子一同挙げて各村々より祭礼費を賄う神供田を寄進し、祭礼を盛大に奉仕することとなった。これに由来して拝殿、神殿の造営なった宝永7年庚寅年に盛大な第一回の御遷宮式が挙行され爾来12年毎に御遷宮式を行い、昭和49年寅年迄23回の御遷宮式が挙行されました。御遷宮式にはその都度坪野村若林源左衛門の屋敷を御旅所と定め、為成郷の各村々を神輿が巡行される大祭を為成郷の里を挙げて今も尚継承され奉仕している。稚児舞もこの時の祭りに由来し往時京都にて伝授を得て(当時の神職近尾河内神藤原由富等伝授を得指導の任に当たりし者の如しと伝える)奉納せしものと伝えられる。例年8月25日の秋季例大祭に拝殿の正面に舞台を設置し氏子より選ばれた10歳迄の男児大稚児2人、小稚児2人、計4人が室町時代の衣装をまとい、古式ゆかしく七つの舞先は鉾の舞、加古の舞、林歌の舞、蛭子の舞、小奈曽利の舞、大奈曽利の舞、陪臚の舞が舞楽に合せ優雅に奉納されている。

御遷宮式と稚児舞の由来
宝永元年秋、坪野村の豪農若林源左衛門の末っ子円六が病気のため10日程打臥していた。折も折続いて召使の者が3、4人同じ疫病にかかった。我が家は先祖より、代々、伊勢大神宮を崇敬して参り、毎朝神棚にお参りし、坪野村の神社えも春、秋のお祭りも相勤め、門戸には尾張津島の牛頭天王の御守符を貼ってあるのに、どうして我が家だけ多くの病人がでるのであろうかと源左衛門は内々神々をうらみ申していた。ところが源左衛門はその夜不思議な夢を見たのである。神々しい白衣白髪の神様が枕元にあらわれて、「中名の熊野社は為成郷の産土神である。然るに産土等粗末にして久しく祭礼が中断し社参する者もなく、熊野大神の怒り甚だしい、それ故産土中神罰にて不作が続き、いつ戸もなく半数程の家が滅びたにもかかわらず神罰とはいささかも思っていない様だ、このまま放置しておくと作物もみのらず十八ケ村の住民共疫病になやまされて滅び果てるであろう。急ぎ神主船木丹後、近尾河内に相談し、黒米の御供に御酒、肴を捧げる祭礼を毎年怠りなくいたす様、その方から、産子達に伝えよ、祭礼を勤めれば大神の咎をのがれ疫病も治るし豊作にもなるだろう。とお告げになったので源左衛門は急ぎ御供を準備して中名熊野社へ趣き御告げの品を捧げ参拝した、その翌日も参拝して帰宅してみると家の病人が皆癒っていた。一族皆熊野大神の恩恵と悦びました。この御示現の高いことが産子内にだんだん知れわたって行った。熊野神社へ御報告とお礼参りの為10月神主近尾河内守と船木丹後守の二人を伴って御供幣帛、御湯立を勤めようとしたところ、熊野神社の守役である円通庵(現中名寺)の別当作禅が他出のため拝殿の鍵がなく当惑しているところへ、南の方から作禅が、襷がけで大汗をかきながら馳せつけてきたのである。源左衛門は作禅を見て不審に思い何事かあったのかと尋ねると作禅は語り始めた。「実はまことに不思議なことでござってのう愚僧は深谷村の祇樹寺に一宿仕ったところ奇体な夢を見申してのう。夢の内には当社は日頃の状態とはうって変り、光輝くほどの立派な社殿になってのう。先ず拝殿内の神前に新しい御廉へいぼん几帳が張り巡らされ、禰宜神主たちは数々の奉幣を捧げ神人神楽を奏すれば、乙女舞遊ぶ様は、まことに目もあやなる荘厳さであり、その音楽は天地に充ち溢れ、村人達歓喜の思いに浸っている。愚僧も神前で参拝を済ませ、庭前をみれば庭火を焚き、いろいろの幡並びに鉾や盾を数多く立てならべ弓矢、太刀など、あちこちに飾り立てられ参詣の老若男女が境内に満ち溢れて鳥居のほとり、社の東西南北の道路に人垣も出来ている。あんまり胸騒ぎするし神社のことであり心もとなく落ち着かないので、、急ぎ馳せつけて参ったわけです。はからずも各々方にお目にかかるもひとえに神慮によることと存じます。若林源左衛門殿の御告と謂え、愚僧に対する御告と謂え、まことにありがたや、ありがたや。」と語り終わったのである。源左衛門、神主二人も共に歓喜して拝殿の鍵をあけ首尾よく神事を勤め終わったのである。斯かることがあって源左衛門はおそれかしこみ私財を投ずることとして宝永2年から社殿の修復を始め、屋根の葺き上げを終えた宝永3年7月25日(現在の8月25日である)に古式に基づいた御祭礼をようやく勤めることが出来ました。尚この間古式の祭典を復活させる為、神主近尾河内守を京都に使いし、稚児舞の伝授を得させ、この祭礼に奉納し盛大な御祭礼を行ない神威を和らげ奉ったのである。一方翌年よりの御神事に入用する銀を調達する目安が立っていないので、当時宮田を寄進している村々を調査したところ、中名村、蔵島村、持田村、萩島村、道場村の五ケ村であり別当社領として支配されていた。五ケ村から献上されている米餞は春、秋の両祭礼神事の内、神主潔斎の飯料、礼式の幣物等に充て残余のものは神主の役料となっていて、祭礼の諸費用に廻して貰う金品の余裕のないことが判明した。そこで円通庵において作禅、中名村の肝煎役八兵衛と私と三人で相談し、先年宮田を引きとってその侭に今日に至っている村々、堀村、新屋村、袋村、板倉村、砂子田村、坪野村の六ケ村へ宮田を少し宛献上して戴くことを図った。熊野神社の祭礼は天下泰平、御国主様安全、次に為成産子家内安全五穀豊穣の御祈祷のためであり今後毎年怠りなく祭礼を勤めるため宮田を寄進して戴く趣旨の回状を宝永3年7月17日付で各村々へ出した。皆々至極尤もと理解され、田地割りの時宮田を差し上げますと六ケ村が共に賛同された。早速、堀村、坪野村においてはその年から宮田米の献上がなされたるその外の村は追々と宮田を申し出られ、その記録をこの帳面に書き置きしておきます。神主近尾河内守殿は大神の御告を有難く冥加に叶えさせられたことに対し恐悦された。そして私に長く世話役として勤めることを依頼されました。私も霊夢にまかせ毎年御祭礼の都度産子衆と相談し宮田米の請払帳をお目に懸け稚児舞を奉納する祭礼を毎年続行出来る様になった。為成産子衆は熊野大神を御信心申し上げ宮田を寄進したことで毎年盛大な御祭礼を目の前に見、豊作に恵まれ御信心の程冥利に相叶ったと皆々よろこばれる様になりました。それについてもし自分が死亡した後と云えども今迄通り世話役を勤め、産子衆と相談して祭礼に奉仕され、宮田米の請払のことも二、三年に一度はこの帳面を産子中之お目に懸け勘定して戴きたい。万一後年において神敵の者があらわれ、御神事をさまたげ祭礼を行なはなかった場合は、その者は御罰を受け、重々悪くなり二代に亘り御罰を受け、その家は、ほろびてしもうだろう。御宮すたれ給う如く、為成中不作となり、わけて天災悪事重り起き、ついには産子段々滅びていきますので、ひとえに産子のためと思って斯様長々と書置き致します。尚天災悪事にあい御祭礼を中断することのない様に熊野神社を崇敬し戴きたい。(段落)長々と書き記した通り神の御告にまかせ以上の通り相勤めて参りました。いささかも粗略にまかり通ってはならない。若林家代々子孫え堅く申し伝え、この帳面末々子孫へ御渡しすること、末代のため毛上の通り書置き致します。以上(段落)正徳元年7月吉日同姓左仲則季(花押)(段落)若林又右衛門殿(段落)昭和60年4月熊野神社奉賛会。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



神熊野神社

当神社は伊奘册尊、速玉男命、事解男命の三神を祀る 往古よりの大社として社家社僧が奉祀し鎌倉初期の承元元年に立山の光明房林海を始め時宗系の僧徒も奉仕したと伝える。
應仁年間京都の神祇管領吉田神社よりも神官が下向奉仕したという 創建当時より当神社は婦負郡爲成郷十八ヶ村、中名、蔵島、持田、萩島、道場、堀、新屋、袋、板倉、砂子田、坪野、添島、清水島、地角、海川原、爲成新、道喜島、十五丁の総鎮守として今猶当社を氏神と崇敬し毎年初穂米を神納されている 永禄年中兵火に遭いたるも寛永年間以来領主前田家累代の信仰厚く宝永7年社殿を造営古式の祭典をも復興することとなった。
明治6年指定村社に列せられた。
 宝永元年秋爲成郷内に悪疫が流行し当時の肝煎職であった坪野村の若林源左衛門の息子と召使の者が相次いで病気にかかった その時爲成郷の各村村の人達が当熊野神社の祭事を怠っており神が怒り給うのである。爲成郷の肝煎役責任者である汝若林源左衛門は直ちに村村の人達と相談して祭事を復興するようにという熊野大神の託宣があった。そこで源左衛門は私財を投じて盛大な祭りを行ったところ悪病はたちまち退散し豊作に恵まれそれ以来爲成郷内の氏子一同挙げて祭禮を盛大に奉仕することとなった。
 これに由来して御遷宮式と称し宝永7年庚寅に第一回とし12年の寅の年毎に坪野村の若林源左衛門の屋舗を御旅所と定め爲成郷の各村村を神輿が御巡幸される大祭典を爲成郷の里を挙げて今もなお奉仕している。
 稚児舞はこの時の祭りに由来し例年8月25日の例大祭に拝殿の正面に舞台を設置し氏子より選ばれた十才迄の男児大稚児2人小稚児2人計4名で舞楽を奉納している。
 この舞楽の種目は次の順で舞うことに定められている
一 鉾の舞
二 賀古の舞
三 林歌の舞
四 蛭子の舞
五 小奈曽利の舞
六 大奈曽利の舞
七 陪の舞
の七種である なおこの舞楽が終了の後に境内鳥居の向つて左側に高く積み上げた土俵上において大花相撲が奉納されていた これを中の名の高土俵関を称して近郷から関を争い名高かつた

社頭石碑



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