神社から数百m、千mも隔つた地の、深さ2mの地下から、鳥居の沓石、鳥居の下部の木柱など、神社の遺構が発見され、宮保を中心として極めて宏荘な古い大社の存在したことが裏付けられている。 |
由緒 熊野神社略記 熊野神社の所在地という意味でその地を熊野郷と呼ぶようになり、その熊野郷は上熊野と下熊野の二村にわけ、供田や神饌田を有して社家と神子の両家で神事をとり行い、一、二、三の鳥居の続いた大社でした。神前を流れる川で手を清めて参拝したので、その御手洗川を熊野川と呼ぶようになりました。享保10年(1725)7月におそろしいひでりが続いたとき、当時の神官横越阿波守則恒が藩主の命うけて、十七日間の雨ごいの祈祷をしました。領内の神官全員参列しての神事でしたが、その七日目に雨が降り出し、霊験をたたえて参拝する人の列が続いたと伝えられております。木草学(薬学)の大家、富山藩主前田利保公は、領内の巡視にはいつも当神社へ立寄り、神前へ詣でては五穀の豊作と天平の泰平を祈り、その祈願料として高を十石を奉納になりましたが、これは明治維新まで続きました。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
伊勢神宮なみだった熊野神社 鳥居の一部みつかる 500年ほど以前のもの 富山市辰尾にある熊野神社が、約500年ほど前までは伊勢神宮におとらぬ大きな神社であったことを物語る大むかしの鳥居の一部が、このほど市営住宅の工事現場から発掘された。 富山市の中心部から6キロ離れた同市辰尾地区は、いま市近郊のベッドタウンとして田畑をつぶし、どしどし住宅が建てられており、昔ここに森林につつまれた大神社があったおもかげもない。同地区にある熊野神社から300m南に離れたところでも、住宅団地として富山市が90戸の住宅建設を進めている。 ところが、このほど、この工事を請け負っている富山建設の人夫たちが排水路工事中、深さ約2m(中略) 500年ほど前まであった鳥居の一部であることがわかり、熊野神社の規模を物語る貴重な物的資料となった。 「熊野神社旧記」といういまから171年前の寛政6年4月に書かれた古文書には、鳥居は焼失したが、その一部が「宝暦年中(1758)に田地の底よりまわり五尺の鳥居の沓石を掘り出す。一つは当社に持ちきて(現在紛失してない)もう一つは割れてその地にある・・・一の鳥居は南方にあるものと推定」とはっきり書かれている。 この古文書を裏づけするかのように、こんど「割れてその地にある」という鳥居の一部が発掘されたわけだが、このように古文書と一致して発見されたのはこれが初めて。こんど発掘されたのは二の鳥居で、関係者はさらに南に寄った所に一の鳥居がまだ地下にうずもっているのではないかと見ている。 富山新聞昭和40年11月30日 |