多久比礼は拷(こうぞ)の繊維で製した細長い薄布で、女子が首から肩へかけて垂らした装飾品であるが、単なる装飾品でなく、呪具として神秘力あるものとされた。 この社名も、塩水湧出の霊異を尊び、そこから得た塩を神聖な拷領布に載せ包み、塩水の絶えぬことを祈り呪つたどころから来ている。(式内社調査報告) |
由緒 多久比礼志神社 略記 今から1300年前、天武天皇の白鳳元年(672)4月12日に林宿禰弥鹿伎という人が部下を率いて神通川を船で上流へ向かって進んでいたところ、たまたま白髪の老人が現われ、一同に語って申すには、向こうの川辺の松の木の際に泉がある。水は塩味を帯びているから、きっと塩がとれる。塩は貴重だから貴方達も大きな恩恵をうけるであろう。早く行って探しなさい。と云い終わると、すつと光を放って姿が見えなくなった。この言葉通りに進むことしばし、緑に囲まれた泉があり、清水は湧き出て地上に溢れています。一同木を伐って薪をを作り、泉の水を煮つめ、やがて最上の白色結晶の塩をとることが出来ました。あの白髪の老翁こそは国魂神であろう。ひとえにわれらに塩を授け給い、この地方を拓けとの託宣であり神授であろう。と感激し、神殿高楼を造営し、老翁を神と崇め祀つて末長く奉仕することになりました。又塩村の呼称もここから起こったものです。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
塩出の湯の由来 天武天皇の白鳳元年(673)申月庚子の日、大窪村字塩村鎮座郷社多久比礼志神社社司林文意の祖先、林弥鹿岐という人の霊異により浄水を発見し、村人たちに塩を焼かせたのが始めといわれている。利波(砺波)の住人だった林弥鹿岐が、利波浦より舟を出して売比川(神通川)にそって笹津・芦生方面へ塩を運んでいたとき、どこからともなく一人の老人が現われ、「この辺りの草むらの中に塩泉が湧き出ている所があるから、その水を煮つめて塩を作り、附近民を助けなさい」と言いのこし、光となって南の方へ消えていた。弥鹿岐は老人の教えにしたがって辺りを探したところ、本当に塩泉が見つかった。「あの老人は神様に違いない」と、弥鹿岐はこの地に住みつき、宮をつくって祭りました。 その後の沿革は不明であるが、天保8年(1837)10月、中大久保の野崎権四郎によって始めて浴舎が建てられ、開湯したといわれる。弘化4年(1847)10月に火災で焼失したが、その後も病を治そうと各地から塩泉を汲みに来る人が多かったので、明治34年6月、上大久保の大浦重平により再び開湯された。 昭和15年廃湯となり、今では残った薬師堂だけが地元の人の手によって祀られています。 http://www.vcnet.toyama.toyama.jp/~osawano/fudoki/michi-dat/michi024.html |