延喜式婦負郡鎮座の熊野神社と白鳥神社の二社に比定されている。 この熊野神社が古くは白鳥神社であつたとも伝えられている。 白鳳年間(672頃)郷内に大蛇が荒び、人を害したので、一ノ宮親王が熊野加武呂命を奉じ、その神威によつて大蛇を調伏した。よつて、大宝2年(702)11月、大社を造営し熊野加武呂命を祀つて山田郷の総社としたという。 出雲の熊野大社から勧請されたとも伝えられ、また、「友坂の東方小泉村(婦中町小泉)にある眞宗大谷派西圓寺はもと友坂にあつた寺で、文明7年(1475)蓮如の化導によつて真宗に転ずる以前は白鳥神社の別当寺であつたと伝承し、住職は白鳥姓を名のり、伝行基作の藥師如来坐像を今に護持している。その像は杉材一木造り、高さ一尺の藤原時代作で、白鳥神社別当寺の所伝を裏づけるかの如くである。(式内社調査報告)」とも言われている。 |
熊野神社 延喜式内 熊野神社御由緒記 当神社社は熊野加武呂命「素益鳴尊」を祀る延喜式内社である。御創建は古く今を遡る1280年前大宝2年11月に山田郷の総社としてご建立されたものてある。 往古よりの大社として数多くの社家社僧が奉仕、、大徳山氷源寺は代々当神社の別当職を務め奉仕したと伝えられている。そもそも太古の昔■■一帯は出雲族によつて開拓されたもので当神社は出雲族の氏神様である出雲の国幣大社熊野神社の系統であると謂われている。この事は当熊野神社の裏山にある大小多くの、塚は出雲地方にのみ在在するものと同型であることからら明らかである。 御祭神が八俣太蛇を退治された素盞鳴尊でこの神話は余りにも名高い、当神社にも大蛇の伝説がでてくるが元来日本古代の農村では稲の生育に必要な水を供給する神とし蛇神が祀られ又これが豊穣神、水の神とも謂われている。平安時代から室町時代へかけて当神社は信仰が盛んになるにつれ境内には正念院友坂寺金乗坊光明寺など二十四坊があり一の鳥居は下條の四ツ屋にあって本殿より隔たること凡そ八丁余り参道の両傍には数多くの石灯籠が並んでいた。今も尚熊野道の名称が残っている。二の鳥居は友坂字竹花にあってその両側には店屋が軒を連ねて賑わいをみせていたので門前町嘉輪の名が残っている。熊野山の新緑に映える七堂伽藍教円坊、西智坊、一層坊など四十八坊が木の間がくれに宝珠をのぞかせ梵鐘の音が全山を包んだのである。寿永年間源義仲越中国へ乱入の節兵火に罹り焼失したのであった。 過去何回かの再建又は修復ありしも現在の本殿は文政12年また同拝殿は大正5年に再建御造営されたものである。拝殿には富山10代藩主前田利保公の弟利民卿の書「熊野神社」の扁額が掲げられている。この様に我々富山人の祖先である出雲族の総氏神様として五穀豊穣招福開運の神社として近年とみに氏子の敬神の念が盛んとなり境内は拡張整備せられて昭和57年には当神社の御創建1280年を記念して玉垣をご造営奉献し神社の尊厳益々加わり氏神様の一層のご崇敬を深めるところとなる。 社頭石碑 |
熊野神社 砺波の高瀬神社と共に最も古い社。白鳳時代の末、都の高僧大徳が創建したといわれる。出雲民族の氏神の国幣大社熊野神社の系統であるといわれ、平安時代に最も栄え一の鳥居は下条の四ツ屋、二の鳥居は友坂字竹の花にあって沿道には数多くの石燈籠が並び賑わった。しかし上杉謙信の相次ぐ侵入に当り、一門これに抗して聖域が灰燼に帰し盛衰を経て今日に至っている。 社頭掲示板 |