付近一帯の丘陵地の総称呉羽山は呉服山とも書き、古代のクレハトリ居住地と傳承されている。 橋本芳雄氏は式内多久比礼志神社について、多久比禮はすなわち拷布で作つた領巾の意であるから、むしろ織布の神を祀る社こそ本来の多久比禮志神社でなければならぬと説き、西呉羽村小竹(現富山市)の姉倉比売神社に比定している。 |
姉倉比売神社 延喜式内 正一位 姉倉比賣神社由来 御祭神 天照皇大神 姉倉比賣命 大己貴命 武御名方主命 御由緒 当社には、創建前史ともいうべき、うるわしい物語が伝えられている。太古、越中に姉倉比賣という姿かたちの美しい女神様がおいでになった。故あって、故郷の舟倉山から大竹野(今の呉羽町)の地へお移りになり、以後その土地の人々と力を合わせて、開拓を進められたのである。心やさしい比賣は、娘たちに機織りを教え、村人たちには仕事に精を出すように励まされたので、誰もお慕いするようになった。 ここは、いずこぞ大竹野よ 機を織りますわたくしは 心もともに トンカラリ トンカラリ 明るい歌声が村中にこだまし、比賣が機を織っていると蜆ヶ森の方から貝が蝶の姿になって飛んできて比賣の仕事を助けた。このようにして大竹野は次第に開けて豊な村になっていったのである 当社は延喜式内社の一つで、越中の杜の中でも最も古い神社である。神社の創建の年代は明瞭ではないが、伝えによると第11代垂仁天皇の御代、越中に阿彦の乱が起こり、大若子命が鎮圧においでになり、当社御祭神の霊夢を受けられ、陣所の四方に祠を建て天神地祇を祀り戦勝を祈願されたところ輝かしい勝利をおさめられた。 天平9年(737)詔があって当社に仏像経典を納め、南方に(現在の源平山一体)一宇を建立し、神事に加わらせた。 応永3年(1386)当社神官が京都へ上り、二條殿のお引立てにより大宮司の位を賜った。 天文6年(1537)上杉謙信、越中最古の社と仰ぎ、翌天文7年当社に願書を奉納し、社領二百石を寄進した。 寛文元年(1661)雷火のため社殿等すべて焼失。明治3年以降神殿、拝殿等順次再建して現在に至る。 姉倉比賣の御神徳と婦負の郡名に因む古い由緒をもつ当社である 社頭石碑 |
姉倉比売神社 御由緒 当社には、創建前史ともいうべき、うるわしい物語が伝えられている。太古、越中に姉倉比賣という姿かたちの美しい女神様がおい でになった。故あって、故郷の舟倉山から大竹野(今の呉羽町)の 地へお移りになり、以後その土地の人々と力を合わせて、開拓を進められたのである。心やさしい比賣は、娘たちに機織りを教え、村人たちには仕事に精を出すように励まされたので、誰もお慕いするようになった。 ここは、いずこぞ大竹野よ 機を織りますわたくしは 心もともに トンカラリ トンカラリ 明るい歌声が村中にこだまし、比賣が機を織っていると蜆ヶ森の方から貝が蝶の姿になって飛んできて比賣の仕事を助けた。このようにして大竹野は次第に開けて豊な村になっていったのである 当社は延喜式内社の一つで、越中の杜の中でも最も古い神社である。神社の創建の年代は明瞭ではないが、伝えによると第十一代垂 仁天皇の御代、越中に阿彦の乱が起こり、大若子命が鎮圧においでになり、当社御祭神の霊夢を受けられ、陣所の四方に祠を建て天神 地祇を祀り戦勝を祈願されたところ輝かしい勝利をおさめられた。 天平9年(737)詔があって当社に仏像経典を納め、南方に(現在の源平山一体)一宇を建立し、神事に加わらせた。 應永3年(1386)当社神官が京都へ上り、二條殿のお引立てに より大宮司の位を賜った。 天文6年(1537)上杉謙信、越中最古の社と仰ぎ、翌天文7年 当社に願書を奉納し、社領二百石を寄進した。 寛文元年(1661)雷火のため社殿 等すべて焼失。明治3年以降 神殿、拝殿等順次再建して現在に至る。 姉倉比賣の御神徳と婦負の郡名に因む古い由緒をもつ当社である 公式HP |
姉倉比売神社由来 当社の御祭神・姉倉比売大神は上新川郡船峅村鎮座の神と同一神にましまして、古来両郡にわたって進徳高く地方開発の祖神として信仰をあつめ尊く拝されている。 神社の創建も古くかつて●●の美を極めたが万治63年(1660)の焼失以来旧観がみられなくなった。しかし神代からの遺事のかずかず、とくに呉羽郡の里にちなむ機織の業を、すでに上代地方の婦女子に教えられたこと、あるいは崇神天皇の御代大若子名命が元凶阿彦の乱を鎮めに下向の時加護されたこと、又天武天皇の皇子文武天皇に夢告されたことなどが伝えられている。 なお中世、上杉謙信が当社を崇敬すること厚く、越中侵攻の理由を願文として奉納したのが現在残されている。 婦負の郡名も呉羽の町名とともに、この神の御遺徳をしのぶものと言われているが、誠、うなずかれることである。 平成6年3月吉日 呉羽山観光協会 社頭掲示板 |