尾根の上の神社。境内は寺家公園となっていて、拝殿から本殿までが長い。 |
姉倉比売神社 この船倉の地一帯は神代の昔から拓け、古事記日本書紀によると、紀元前30年頃に姉倉比売がこの辺りの賊を征伐統治され、後に農耕と養蚕を地元民に広め特に機織の神として崇敬されたと記してある。 神苑に老樹鬱蒼とした高陵に拝殿があり、また県の天然記念物に指定されている赤樫林に囲まれた本殿そして入母屋造りの社務所がある。 この社は昔の神仏混交の名残を今に留め、本地仏虚空蔵菩薩を護持して33年に一度の御開扉が今も伝承されている。 (以下略) 平成5年3月記 風致保存会 社頭掲示板 |
姉倉比売神社 江戸時代の『三州奇談』(堀麦水)や 『肯搆泉達録』(野崎雅明)には、姉倉姫の 神話が紹介されているという。 姉倉姫は船峅山(富山市舟倉の一帯) を本居とした女神で、能登石動山の伊須流伎彦と夫婦の間柄であったが、伊 須流伎彦が杣木山(石川県中能登町の能登比梼ミのあたりではないかと廣瀬誠氏は推測)の能登姫と通じたため、姉倉姫は 激怒し、この三角関係のもつれから、越 中・能登は戦乱となった。能登姫は海水を巻きおこして潮水を吹きかけ、姉倉姫 はありったけの小石を投げつけたため、 船峅の上野には小石が一つもなくなった という。布倉山(立山町横江集落背後の山。「尖山」)の布倉姫も姉倉姫に加勢して戦った。 この騒動を聞いて、出雲から大国主ノ神がやってきて、戦乱を鎮め、関係者を処罰した。伊須流伎彦と能登姫は海浜にさらして重く罰され、姉倉姫は呉羽の小竹野に謹慎させられ、機織の仕事で罪を償わされた。姉倉姫が機を織っていると、窓から蝶が舞い込んで、姫の仕事の手助けをした。この蝶は蜆ケ森のシジミ貝が変 化したものだという。ちなみに、近くの水田の一隅に塚があり、これが蜆ケ森で、 白髭神社がある。もともと縄文時代の貝塚だという。 数年後、姉倉姫が許されて故郷の船峅に帰るとき、無数の蝶が姫を慕って舞いながらついていったと伝わる。こうした 由緒があることから、本居地の船峅にも、 流謫地の小竹(呉羽)にも姉倉姫神社が祀られているのだという。 富山の風景 |