高岡関野神社
たかおかせきのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】加久彌神社2座 越中国 射水郡鎮座
   【延喜式神名帳】熊野神社 越中国 婦負郡

   【現社名】高岡関野神社
   【住所】富山県高岡市末広町 9-56
       北緯36度44分37秒、東経137度0分41秒
   【祭神】伊弉冉尊・ 事解男命・速解男命・稲荷大神・前田利長命
   【例祭】3月15日 例祭 8月15日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】古くは上関村(今の神主町)に鎮座あり
       慶長9年(1604)前田利長加久彌神社を関野神社境内に遷
       享保11年(1726)神明宮と改称
       文化3年(1806)堀上町(現在地)に遷座
       明治5年9月関野神社郷社
       明治12年11月高岡神社県社
       大正8年三社を含併して県社高岡関野神社

   【関係氏族】
   【鎮座地】古くは上関村(今の神主町)に鎮座あり
        文化3年(1806)堀上町(現在地)に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「神明社・熊野社・稲荷社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

本殿が3棟あり、関野神社(熊野座)・高岡神社(稲荷座)・加久彌神社(神明宮)は関野三社と称して、同一境内に鎮座されている。加久彌神社は往古、射水郡関野郷上関村に鎮座せる式内社で有った。大伴家持卿、越中国司として下向の時、当社に参拝し神鏡を奉納したと伝える。現在、神事としての高岡御車山祭は、余りにも有名である。


高岡関野神社

高岡関野神社の概要
当社は神明社・熊野社・稲荷社の三社よりなり、古くは上関村(今の神主町)に鎮座ありしを、文化三年(1806)に堀上町(住居表示による末広町)に遷座し奉ったのであります。
大正8年この三社を含併して県社高岡関野神社と称し、俗に高の宮と呼び、高岡の開祖前田利長公を奉祀する唯一のお宮として、広く市民の崇敬するところであリます。
春季祭礼の「御車山祭」"やま祭り"は全国各地から訪れる観光客で、北陸路で随一の賑いを呈し、高岡のシンボルとして名物となっています。 御車山は、豊臣秀吉から利家、利長へと伝えられた聚楽第遺構の御車を利長公が高岡繁栄のために、町民に付与せられた由緒と地場産業と密着した名工が精魂こめて作りあげてきた豪華絢欄たる桃山時代を誇る綜合美術工芸品としての貴重な価値があると言われています。
しかも、わが民族が信仰の原点である諸要素を備へ、よく古格を維持して今に伝え、庶民文化の流れを識る事ができ、未だ探究すべき事が少からずとして昭和35年2月重要民俗資料第一号に指定せられ、現在重要有形民俗文化財及び重要無形民俗文化財となっているのであります。
御祭神と縁起
神明社 
関野ケ原の古風による六社明神の一社であって、五・六世紀頃の創建であり、現在の上関地内神主町が発祥の地と考えられるが(不歩記)詳かではない。のち加久弥社と称し奉る。
《加久彌社が式社》
御祭神 国常立尊・保食神・天照皇太神・三毛入命
熊野社
始め熊野離宮と称し、天暦2年(947)射水郡水戸田密蔵寺より御遷宮し奉る。水戸田より大門町に至る道を、今以って熊野街道と称し伝えている。
御祭神 伊弊冊尊・事解男命・速玉男命
稲荷社
慶長14年、高岡域内に勧請せられ、利長公の没後、上関村の熊野社、神明社の社地に移転し、文化三年に今の地に遷宮し奉る
御祭神 稲倉魂命・稲荷大神 贈大納言菅原朝臣前田利長公
御祭神前田利長公略歴
公は永禄5年(1562)正月12日尾張愛智郡荒子村において加賀藩祖利家の長子として生れ、菅原道真公の後裔であります。幼名を犬千代、長じて孫四郎、初め利勝のち利長と改め、織田・豊臣の二氏に歴事し、屡々軍に臨んで戦功を挙げ、越前の府中、加賀の松任、越中の守山、富山に転封されたのであります。
天正17年、後陽成天皇・正親町上皇の聚楽第行幸に際し、利家と共に天皇に侍べり接対の大役を果たし賞美を享け、慶長3年利家退老に及んで封を襲ぎ加賀、能登、越中の三州百二十万余石を領して金沢城に治した(官位権中納言従三位に至る)
慶長5年の頃関ケ原の役には世上穏かならざるを遠慮し10年6月退老して富山に居域したが、火災によって焼失のため、安住の地として関野(今の高岡)を選び、高山右近の縄張の下、新に城を築き、慶長14年9月13日高岡と名付け高岡城に居を定めた。この時公は、聚楽第の遺構を利家より伝承し、高岡に付与し曳山を作らしめ、城下町の繁栄を謀り翌15年三の丸に曳き揃え、賞詞と金子を拝領したのであった(ほこ山車の文)而るに病のため19年5月20日高岡城に薨じた、年五十有三正二位権大納言を贈られ、法圓寺(今の瑞龍寺)に葬られた。釈謚して瑞龍院殿聖山英賢大居士と日ふ。
公の人と為り、沈毅にして遠識あり、学を好み才を愛し心を民事に留め、工業を興し、物産を殖し、力を治国守成に用ふ、其の子孫も先業を継承して失遂せしめなかったのは実に公の施為の宜しきを得たものとする。

由緒書



高岡関野神社

高岡関野神社縁起
『高岡関野神社』は、関野神社(熊野社)、高岡神社(稲荷社)加久彌神社(神明社)、の三社が起源であります。
関野神社は、天暦2年(948)に射水郡熊野村蜜蔵寺(現在の水戸田)に祀る熊野大権現を、関野の御坂へ遷座し、『熊野社』と称したのが起源であります。慶長14年(1609)に、前田利長公が高岡城築城に際し、上関村(現在の神主町)へ遷座し、享保11年8月(1726)に社名を正一位関野神社と改称し、その後文化3年2月(1806)に現在地(高岡市末広町9番43号)へ遷座しました。
また、高岡神社は慶長15年(1610)に、前田利長公が高岡城鎮護のために建立された『稲荷社』が起源であります。慶長19年(1614)利長公没後、利常は前田利長公を神霊として祀り、上関村熊野社へ遷座し、その後、文化3年2月(1806)に現在地へ遷座し、明治11年9月(1878)に社名を高岡神社と改称しました。
加久彌神社は、上関、下関、鴨島一帯を神領とする奈良時代創建の古社で、「延喜式」神名帳登載の射水郡十三座の一つである「神明宮」であったとされています発祥の地は、現在の上関地内神主町であり、五社等之由来帳(石川県立図書館蔵)によれば、天平時代には、大伴宿弥家持卿が宝鏡を奉納したと伝えられています。その後文化3年2月(1806)に現在地へ遷座し、明治維新後は、関野神社に合祀せられ、『神明社』と改称しました。大正8年(1919)に、県社高岡神社と郷社関野神社が合祀して、県社高岡関野神社と改称しました。
『高岡関野神社』は、文化3年2月(1806)に現在地に遷座されて以後、俗に高ノ宮と呼ばれ、高岡の開祖前田利長公を奉祀する唯一のお宮として多くの人に親しまれています。
高岡御車山祭
國指定重要有形民俗文化財 昭和35年6月9日指定
國指定重要無形民俗文化財 昭和54年2月3日指定
富山県指定有形文化財(工芸)昭和42年3月25日指定
高岡御車山祭は、例年5月1日に行われる高岡関野神社の春祭りの行事であります。
この祭りは天正16年(1588)に、豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇と正親町上皇をお迎えしたときに使用した鳳輩を、加賀藩初代藩主前田利家が秀吉より拝領し、二代目藩主前田利長が慶長14年(1609)高岡城築城の際に、これを町民に与えて関野神社の神輿に伴って巡行させたことに始まるといわれています。この時に、城下の大町七ケ町に賜った山車を尊称して『御車山』と呼ぶようになりました。
京都祇園の祭礼にならって鉾山に改造され、高岡関野神社の祭礼日に神輿と共に曳き廻されてより以来、今日に至るまで高岡の発展と共に継承されてきました。
『御車山』は、御所車形式に鉾を立てた古代神仰の形式を今に伝える点が高く評価されています。
高岡町民の心意気と財力に支えられ、格式を保ち、高岡の金工、漆工、染織等の優れた工芸技術の装飾が車輪や高欄、長押等に施された日本でも屈指の華やかな山車です。
神輿渡御と御車山祭
高岡御車山の行列次第が記録された「御祭礼行列調理帳」(高岡市史中巻371)によると、遅くとも享保元年(1716)にはその存在が確認できます。明治16年(1883)の「越中国高岡関野神社祭礼繁盛略図付録」という木版画には、大旗、獅子頭、神馬、八人の母衣武者等が神輿・御車山を先導している様子が描かれており、往時の祭礼の賑やかな様子がよくわかります。
現在では、5月1日に神輿一基が御車山の奉曳とは別に、氏子町内を渡御しています。博労町、元町、梶原町、平米町、宮脇町一丁目、利屋町等が、母衣(甲冑)・大小の纏などを母衣宿で飾り、また、右記の宮脇町一丁目を除く各町のほか鴨島町・袋町の町内役員は紋付き羽織袴の正装で神輿、御車山を迎えています。
鴨島町の大旗は、町内に立てられています。
史料によると、江戸時代には右記の町内以外にも、白銀町、片原横町、鴨島町などの母衣武者が大小の纏、床机持ち(小姓)などを従え、行列にも参加していたようです。
御祭神前田利長公
前田利長公は、永禄5年(1562)1月12日、尾張国愛知郡荒子(名古屋市)において、加賀藩祖利家の長男として生まれました。幼名は犬千代、後に利勝と名乗り、織田・豊臣の武将として戦い、数々の戦功を挙げ、越前府中、加賀松任、越中守山、そして富山の城主になり越中支配の基礎を築きました。
慶長3年(1598)利家から家督を譲り受けて、加賀二代藩主となり金沢城に入りました。利長37歳の時です。この後、徳川方として戦功を挙げ加越能三国一二〇万石の大々名として地位を確立しました。
慶長10年(1605)、利長は44歳で藩主を利常に譲り富山に隠居しましたが、慶長14年(1609)富山大火により、新たに射水郡関野に築城(高山右近縄張り)し、『詩経』の一節「鳳鳳鳴矣彼高岡」をとり、『高岡』と名づけ、町を開きました。この時に、関野神社氏子の七ケ町に賜った山車を尊称して『御車山』と呼ぶようになりました。
廃長19年(1614)「我死なば、すなわち天下自ら統一して太平ならん」と言い残し5月20日に高岡でその生涯を閉じました。享年53歳。利長は神霊として「稲荷社」(後の高岡関野神社)に祀られ、また、利常により造営された法圓寺(後の瑞龍寺、平成9年国宝指定)に菩提を弔われ、高岡の地で安らかに眠っています。

由緒書



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