一宮の座を気多神社と争ったとの伝承がある。『白山記』には「二神(二上射水神社のこと)がもと一宮であつたが、新氣多が之を争ひ、二神が力なくして新氣多に一宮をとられた」と記している。新氣多とは能登より新しく勧請された越中氣多をさす。 明治になって國幣中社に列せられたが、社僧の影響下にあり、神社であるか寺院であるかの区別もつかず、養老寺の境内末社的有様であったため、聖地二上を捨てて高岡城跡へ遷座した。 |
射水神社 明治の初年、神佛混淆廃止となり、権現號は停止となり、射水神社と改称し、國幣中社に列格せられたが、當時の権宮司関守一氏は、社僧数百年の専様を悪むの余り、神代からの聖地であつたにも係らず、これを捨てて利長公築城、薨去の高岡古城趾の一角に御遷座を企て、遂に成功して、明治8年9月16日を以て射水神社は御遷座となつたのである。(中略)射水神社の御遷座は数百年間社僧に虐げられた反抗の結果に外ならぬ。(中略)社僧専横で(社領なども養老寺領として一切神主に関係せしめず、大祭に際してはその前日に関家に簡単な祭典をなさしめ、當日は社僧にて大般若経転読祈祷といふ始末、神社であるか寺院であるかさへの区別も立たぬ程で、二上権現は養老寺の境内末社の如き有様になつてしまつた事である。(中略)要するに射水神社は明治維新までは社僧の支配下に居つたのである。 射水神社志 |
二上射水神社の築山行事 昭和57年1月18日指定 古代信仰では、神は天上にあり、祭に際して降臨を願うものとされた。この行事は毎年4月23日二上射水神社の春祭に行なわれる。境内の三本杉と呼ばれる大杉の前に、社殿に向って築かれる臨時の祭壇は、幅四間、奥行三間、上下二段になっており、上段中央に唐破風の簡素な祠が置かれ、その前に日吉、二上大神、院内社三神の御霊代である御幣が立てられる。屋根の上には斧をかざした天狗が立ち下段には甲冑に身を固めた四天王の藁人形が置かれ、祭壇のまわりは造花で飾られる。 祭礼の前日の夕刻、頭屋にあたる山森氏(御幣ドン)と神主が二上山頂にある奥の御前の日吉社から御幣に神を迎える。一夜自宅でお護りし翌日築山に移す。院内社は祭の当日迎えられる。 祭儀は、午後二時から行なわれ社殿で例大祭の儀式が済むと三基の神輿が巡行する。ゲンダイジンを露払いに、御幣ドン、神主が続きその後院内社、二上大神、日吉社の神輿が続く、途中で院内社の神輿だけが一旦鳥居の外に出て、戻って二上大神と日吉社の間に割って入る。これを「院内わりこみ」という。その後、築山の前と天の真名井の前で祝詞が奏上され、本殿の前に戻って儀式が終る。祭儀が終ると築山はただちに解体され片付けられる。遅れると神様が荒れるという。 この行事は、天上から臨時の祭壇に神を迎える古代信仰を本義を良く残している。又動かぬ築山がやがて動く曳山へと発展していったと考えられており高岡御車山の原初形態を知る上でも貴重である。又社殿の神事と古代信仰の築山神事の二重の神事を同日に行なっている点も興味深い。 社頭掲示板 |
射水神社 重要文化財 木造男神坐像 昭和43年4月25日指定 二上射水神社は延喜式神名帳に記載されている式内社越中34座の中の唯一の名神大社である。創建時代は不詳であるが、奈良時代末の宝亀11年(780)の続日本記に「越中国射水郡二上神叙従五位下」の神階を授けられており、当時すでに北陸地方屈指の大社であったことがわかる。 重要文化財・木像男神坐像は二上射水神社の御神体で、欅材の一木造でりで彫眼、平安時代後期の作で、全国に存在する神像の中でも最大級である。 顔面は、丸ノミの跡を残す鉈彫りで顔の筋肉の躍動をあらわし、堂々たる体躯をつつむ衣文は絹織物のなめらかさを表現するため平ノミで仕上げている。 両手・両足はほぞで結合してあったが今はない。また、かっては彩色があったらしく、衣文の奥、その他にわずかだが胡粉らしきものを残している。 鉈彫りの彫刻は、平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて、東北・関東地方を中心に造像された我が国木彫の特異な手法で、現存が確認されているものは富山県と愛知県を結ぶ線上より東に分布しているといわれ、この神像は西限に位置し、全国の分布状況から見て貴重な神像である。 高岡市教育委員会 社頭掲示板 |