往古の頃は桐木村字荊波島に大鳥居があり、参道が続いたと伝えられる。 本宮から後ろの山へ登ると奥宮があり、その後方に前方後円墳がある。これは利波臣志留志の塚であろうとされている。 長く「富士権現」を証していた、明治の神社明細帳に至つて「荊波神社」と改称した。 |
史跡記塚と出土品 南砺市指定文化財 史跡記塚と出土品 昭和34年11月5日指定 平成18年11月28日名称変更 荊波神社の奥の院後方に、記塚と呼ばれる径約9m、高さ1.5mの塚がある。 明治期に周辺から陶器や刀子、銅板金などが出土し、それらの出土品は、現在、神社で保管されている。 大正期には、奈良東大寺の盧舎那仏建立に尽力した豪族、利波臣志留志の前方後円墳であるといわれ、昭和34年に「志留志の古墳と発掘物」として文化財指定された。しかし、平成5年の測量調査の結果から、古墳の可能性は低いことがわかり、経塚として名称変更を行った。出土品は珠洲焼の壷と片口鉢、刀子、平安時代後期の鏡、銅板製の経筒等で、珠洲焼などの年代から12世紀中ごろと推定され、県下でも古い経塚埋納品と考えられている。 岩木自治会 南砺市教育委員会 社頭掲示板 |
利波臣志留志 利波臣志留志は当荊波神社の主祭神日子刺肩別命(第7代孝霊天皇の皇子)を遠祖とし、天平年間(729)より宝亀年間(780)にがけて砺波(利波)地方を中心に活躍した大豪族で、東大寺に田地を寄進したり、朝廷より位階を授けられたりして中央に広くその存在を知られていた。 当社奥宮後背地にあり、土地の人々より古来「記塚」と呼ばれれていた古墳は、大正8年当時の宮内省諸陵考証課長より、利波臣志留志の墳墓であると考証され、現在福光町詣定文化財になつている。 社頭掲示板 |
荊波神社 荊波神社由緒 鎮座地 西砺波郡福光町岩木字中宮谷島5024 御祭神 日子刺肩別命(主祭神) 底津海積命 中津海積命 表津海積命 応神天皇 建御名方命 由緒 「延喜式神名帳」(928年)に越中国砺波郷七座の内に「荊波神社」とあり、「うばら」とも「やぶなみ」とも注記してあるが今日殆ど「荊波神社(うばら)」とよばれている。荊波神社の主祭神、日子刺肩別命は古事記に「高志(現在の北陸地方)之利波臣の祖也」と記されている。 当社の御創建は甚だ古く不詳であるが、古記録から元正天皇の養老年間(720年)頃かそれ以前の時代に御創建されたものと推察され、これには日子刺肩別命を御祖先神と祀る利波臣志留志(墳墓は当社奥宮後背地)が大いに関わったと思われる。 その後山岳信仰の広がりと共に大社として多くの修験道の山伏を擁し、石黒郷二十七ヶ村の惣社として崇敬を集め、荊波神社富士権現とも称し近隣各村にも富士社が勧請されたと云う。このように神仏混淆の僧(山伏)により守り伝えられやがて明治維新を迎え古の随神の道に復し、「荊波神社」に変わり今日に至るのであるが、往時は「花祀り」秋は「盤持祭り」等氏子村民挙りて祝うところと今に伝わるものである。 猶、当岩木村畑宮中鳥居野は中鳥居の在った所と云われこの地から「荊波領」と刻まれた礎石も発掘され、又小矢部川を隔てた桐木村田畠字荊波島は大鳥居の跡とも云われ、これらは本殿(奥宮)拝殿より一線に結ばれるものである。底津海積命 中津海積命 表津海積命は古来河川を鎮める神々として祀られ、応神天皇は当村八幡社の御祭神で、建御名方命は同社境内社諏訪社の御祭神二社共に由緒不詳且維持不備の為神威の汚れるを恐れ、明治末年二社を荊波神社に合祀せり。 荊波神社の所在地は古来諸説があり今日尚不詳とされるが、神社及び周囲の環境、神域の形態等々から推し量っても中古の頃より幾度かの戦火或いは河川の氾濫等を避けて現在の場所に御遷座になったものと思われる。 「延喜式内荊波神社」明細帳より跋録 昭和58年3月18日 荊波神社 社頭掲示板 |