永く、射水神社(二上神)・気多神社・雄山神社(立山権現)などと越中国一宮を争つてきた。 宮司藤井氏は天智天皇第ニの宮施基皇子に始まるとされていて、往時は南に残る字名「大宮司」に住居していた。 南方700mの大字「大宮司」に古墳時代から平安時代初期に比定される豊富な遺物が出土した【高瀬遺蹟】がある。 「大宮司」は、当社の創祀伝説にも登場している所であり、この遺跡は、当社の古代環境を考へる上において貴重である。 |
由緒 越中一宮 高瀬神社 御鎮座二千年の由緒ある古社 御祭神 当神社の御祭神は、大國主命(大己貴命)を主神に天活玉命、五十猛命を祀り、末社三社と礪波地区の村々里々に鎮座されます氏子の神々と越中国延喜式内社三十三座の神々を奉斎したお社でございます。 大国主命、縁結び、国土開拓、農耕の神様です 天活玉命、無病息災、延命長寿の神様です 五十猛命、産業の神様です 御社殿 千鳥破風と唐破風が巨木の森に調和よく建つ当神社の御社殿は、昭和17年より数ケ年の計画で建立される予定で工事が始まり、基礎工事が終了した昭和20年8月終戦を迎えGHQ(極東軍司令部)の司令によって国費による建立が中止され、往古の面影は消滅し、参拝する人の数は皆無といった状況であり、こんな姿を憤慨された地方の崇敬者有志の方々が多額の浄財や樹齢数百年の銘木を御寄進下され、社殿建立の情熱にささえられて、昭和22年に御本殿(流造)、翌年(昭和23年)に拝殿(入母屋造)更に昭和62年に唐破風の向拝殿が完成し、鎮座二千年の歴史を偲ぶ御社殿の完全な竣工を見るに至ったのです。 氏子崇敬社 氏子は現在井波町大字高瀬の百余戸でありますが、古来近郷十一ケ村の人々は春秋の例大祭には仕事を休み神社へ参拝する習慣がありました。現在、御神徳の昂揚によりまして県内は云うまでもなく遠く北海道、甲信越、北関東から崇敬者の方々が参拝されます。 宝物殿と大鳥居 昭和59年、礪波市在住の岩川毅氏の御寄進により11月竣工し、60年には小矢部市在住の西田東作氏によって参道の大鳥居が寄進され、天皇陛下御在位六十年祝賀記念事業として二年間に亘り施工されたものであります。宝物殿には古来当神社に伝わる御神宝等を収蔵しております。また、大鳥居は6月30日の大祓式に御奉写された大祓詞を収納致し大鳥居の下をくぐる人々の罪穢を祓い清めております。 手水舎 昭和45年に伊勢神宮より御下附され神宮(外宮)から移築された建造物であります。手水舎の中にあります水鉢は新潟県只見川上流より運ばれた自然石でつくられ洗心の禊場であります。自然石の裏に「水神」の文字が刻まれております。 功霊殿 御社殿に隣接する功霊殿は礪波地方から出征され戦場で護国の英霊となられた方々と、地方開拓の功労者合せて6400余柱の御霊を昭和24年に合祀したお社であります。御本殿は当神社の旧本殿で天保7年(約159年前)の建立で井波彫刻の粋を尽くしたものであり文化財の指定を受けております。 齋館 平成3年8月に完成した当神社で一番新しい建物であります。齋館と云いますのは祭に奉仕する神職達が祭に奉仕する前に参篭して潔齋(心身を清浄にする)館舎です。この館舎は小矢部市在住、ゴールドウィン社長西田東作氏と会社の皆様の御支援によって建立されたのです。 社務所と境内 昭和40年鎮座二千年を記念し造営されたもので鉄筋平屋造りの社務所で和洋折衷のモダンな(660u)建物であります。近年会議室等の内装を整え結婚式その他にも利用され喜ばれています。 境内地には樹齢数百年の杉の巨木の森は過去の歴史を語りかけ、四季を通して野鳥の声が森林の中に響き参拝者の耳を楽しませてくれます。境内樹木の若木は各地から崇敬者の方々が植樹されたものであります。 御鎮座の由緒 御鎮座の年代は不詳ですが景行天皇の御代だとも言われています。 天武天皇の御代に当神社へ勅使を遣され、その後、光仁天皇宝亀11年に従五位に更に、清和天皇貞観元年に正三位後、治承4年に正一位に列されると共に多くの社領荘園があり皇室の御領となったこともあるようです。神社の氏子の地名、大宮司、神子畑、勧学院など往事の面影を偲ぶことができます。戦国時代に入ると、往古の繁栄はいづこへ、社頭は荒廃し人心も乱れた時代でした。江戸時代になると崇敬厚い加賀藩主の保護により神威は昂揚し、明治6年に県社となり大正12年国幣小社に列せるに至り翌年13年に摂政宮(先帝陛下)の勅使が御参拝になり、昭和20年終戦と共に国民の幸を祈るよう勅使の御参拝がありました。現在初詣をはじめ季節の移り変る節目の祭典や神事に多くの崇敬者が参拝になります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
高瀬神社 御祭神 当神社の御祭神は、大國主命(大巳貴命)を主神に天活玉命、五十猛命を祀り、未社三社と砺波地区の村々里々に鎮座されます氏子の神々と越中国延喜式内社三十三座の神々を奉斎したお社です。 大国主命は縁結び、国土開拓、農耕の神様です。 天活玉命は無病息災、延命長寿の神様です。 五十猛命は産業の神様です。 御杜殿 千鳥破風と唐破風が巨木の森に調和よく建つ当神社の御社殿は、昭和17年より数ヵ年の計画で建立される予定で工事が始まりましたが、基礎工事が終了 した昭和20年8月終戦を迎え、GHQ(極東軍指令部)の措令によって国費による建立が中止となりました。往古の面影は消滅し、参拝する人の数は皆無といった情況でしたが、地方の崇敬者有志の方々が多額の浄財や樹令数百年の銘木を御寄進下され、多くの方々の社殿建立の情熱にささてられて、昭和22年に御本殿(流造)、翌年(昭和23年)に拝殿(入母屋造)、更に昭和62年に唐破風の向拝殿が完成し、鎮座二干年の歴史を偲ぶ御社殿の完全な竣功を見るにいたりました。 御鎮座の年代は不詳ですが景行天皇の御代だとも言われています。 天武天皇の御代に当神社へ勅使を遣され、その後、光仁天皇宝亀11年に従五位に、更に清和天皇貞観元年に正三位、治承四年に正一位に列されると共に多くの社頒荘園があり、皇室の御領となったこともあるようです。神社の氏子の地名、大宮司、神子畑、勧学院など往時の面影を偲ぶことができます。 戦国時代に入ると、往古の繁栄はいづこへ、社頭は荒廃し人心も乱れた時代でした、。江戸時代になると崇敬心の厚い加賀藩主の保護により神威は昂揚し、明治6年に県社、大正12年に国幣小社となり、翌13年に摂政宮(昭和天皇)の御使が御参拝になり、昭和20年終戦と共に国民の幸を祈るように勅使の御参拝がありました。 現在、初詣をはじめ季節の移り変る節目の祭典や神事に多くの崇敬者の参拝があります。 祈年穀祭 稲作をはじめ農作物全体に害虫の被害がなく、豊作でありますようにお祈りする祭りです。 高瀬神社は毅倉地帯の砺波平野の真中に鎮座されておりますので、高瀬神社と農耕に関する祭りが多いようです。「むかし、いなごが多く発生して農民がこまり、朝廷から勅使が参向され、夜、松明をたき、いなごを退治した」との伝承によって今日も6月10日に往古を偲んで祭礼がおこなわれています。 宝物殿は昭和59年、砺波市在住の故岩川毅氏の御寄進により11月竣功し、60年には小矢部市在住の西田東作氏の御寄進によって参道の大島居が建立されました。 これらは昭和天皇御在位六十年祝賀記念事業として二年間に亘り施工されたものであります。宝物殿には古来当神社に伝わる御神宝等を収蔵しております。また、6月30日の大祓に御奉写された大祓詞が大島居の中に収納され、大島居の下を通る人々の罪穢を祓い清めております。 大祓 神社へ参詣したり、結婚式や地鎮祭などたいせつな神事の前には、必ず参列者に神職が幣を振ってお祓いをしますが、この祓は悪くきたないものを除くことにより、災厄をまぬがれる行事で悪穢をきらい清潔なものを貴ぶ日本固有の宗教観念から生じたものなのです。 それゆえ祓の起源は古く、神話時代にさかのぼります、イザナギノミコトが黄泉国へいった穢れを禊により洗い落とし、その際出主したスサノオノミコトがアマテラスオオミカミへの乱行から高天原を迫放されたとき八百万神々の命で、アメノコヤネノミコトが祓詞を宣べたのが祓の起源とされています。これがのちに、大祓詞となったのです。 斉館 平成3年8月に完成した当神社で一番新しい建物です。斉館とは神職が祭に奉仕する前に参籠して潔斉(心身を清浄に)する場所です。この建物は小矢部市在住、ゴールドウイン社長西田東作氏と会社の皆様の御支援によって建立されました。 節分 春夏秋冬が立つ日の前目を節分と云いましたが、特にに正月の春立つ日の前日だけが残りました。 立春を年の改まる日と考えて「年取」とか「年越し」ともいいます。 節分の夜、門戸にヒイラギの枝にイワシの頭を刺した物を立てるのは平安時代初期から行なわれた厄払いの習俗ですが、原始時代の農耕儀礼と合わさったもので「福は内、鬼は外」ととなえながら豆をまくことは室町時代ごろにはじまりました。当神社では戦後、節分行事が復活しました。 手水舎 昭和45年に神宮より御下附され、外宮から移築された建造物であります。手水舎の中にあります水鉢は、新潟県只見川上流より運ばれた自然石でつくられ、洗心の禊場であります。 自然石の裏に「水神」の文字が刻まれております。 献穀田 春早々に種籾のお祓いからはじまります献穀田は、井波町の中核農業士の方々の肝煎によっておこなわれております。御田植祭、抜穂祭には早乙女が神事に奉仕します。 由緒書 |
高瀬神社 歴 史 御鎮座は遠く神代の昔、また景行天皇11年の御代とも云われています。社伝に御祭神が北国御開拓の折、この地に守り神を祀り、国成りおえて後、自らの御魂をも鎮め祀られ、出雲へ帰り給うたとも伝えられ、のちに延喜式内社、越中一宮として崇められてきました。 越中国の人々は勿論、朝廷の崇敬も厚く、天武天皇の御代に勅使を派遣され、光仁天皇の宝亀11年に従五位、文徳天皇の斉衝元年に従三位、また同年、祢宜、祝等に把笏を許さる。貞観元年に正三位、その後も順次累進、治承4年に正一位を授かりました。 また社頭荘園多く又皇室の御領に宛てられたこともあり、神子屋鋪・鎌倉屋鋪・大宮司田・神子畑等、近傍に残る地名によって、往時の盛大さを偲ぶことが出来ます。 戦国時代には社頭荒廃し、見るに忍びない状態となりましたが、前田藩主の崇敬厚く漸次神威昂揚せられて、明治6年に県社、大正12年に国幣小社に昇格されました。 大正13年には摂政の宮の御使が参向され、大正14年には皇后陛下より「神ながらの道」を奉献され、昭和3年の御大典、昭和16年の宣戦また昭和20年の終戦には勅使の参向がありました。 創祀伝承 「在昔、大己貴命北陸御経営ノ時、己命ノ守リ神ヲ此処ニ祀リ置キ給ヒテ、ヤガテ此ノ地方ヲ平治シ給ヒ、国成リ竟ヘテ、最後に自ラノ御魂ヲモ鎮メ置キ給ヒテ、国魂神トナシ、出雲ヘ帰リ給ヒシト云フ。」(高瀬神社誌15〜16頁) 「此御神は住昔高麗より御渡り、此地へ御着の日7月14日なりと、御神御足袋を濯せ給ふ流を、たび川と名つけ、此川の辺に暫時御休み、高瀬へ御移の間、俄に雨降、御神雨をくくると仰られしと也。よって其処を、今に雨潜村といふ也。其後毎年たひ川の辺御休の処へ御旅行なされ、其処を宮守と唱へ、今以江田村領を流るる也。」(越之下草3頁) 公式HP |