塩湯彦神社
しおゆひこじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】塩湯彦神社 出羽国 平鹿郡鎮座

   【現社名】塩湯彦神社
   【住所】秋田県横手市山内大松川御嶽山3
       北緯39度22分3秒  東経140度38分5秒
   【祭神】速玉尊 大山祇命
   【例祭】7月下旬日曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】役行者が開山と伝えられる
       弘安年中一遍上人再興
       正徳5年(1715)社殿完成
       明治6年郷社
       明治40年1月11日神饌幣帛料供進神社
       昭和38年豪雪で社殿倒壊
       昭和57年7月20日再建

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】本来は御嶽山を祀る
   【祭祀】江戸時代は「御嶽権現」と称していた
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

御嶽山山頂に鎮座する。 標高744mの御嶽山頂にある塩湯彦神社は、山岳修験の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が開山したと伝えられる。
熊野系修験道の影響を受け、中世には「熊野堂」と称した。


塩湯彦神社

塩湯彦神社再建記念碑
御嶽山は744mの高山でその昔役の行者の開山と伝えられ一千年の歴史を持つ由緒ある霊山である
その塩湯彦神社の社殿が昭和38年の豪雪で倒壊し山は荒廃の一途を辿った この現状を見かねた横手市杉沢地区の青年有志30名が昭和48年9月自発的に御嶽山開発委員会を組織し御嶽山のあすを開くひたむきな活動を続けてきた その中で社殿再建の提唱が持ちあがりこれを実現させようと横手市山内村の同志が寄り合い昭和55年8月4日当再建奉賛会を結成した
以来住民への協賛呼びかけと神社再建工事が進捗し昭和57年7月25日500余名の参拝者を得て塩湯彦神社の竣工式を荘厳に挙行 青年の抱いていた再建の夢が見事ここに実現されたのである よってその功を碑に刻み永く記念するものである
昭和57年10月31日 建之

社頭石碑



塩湯彦神社

御嶽山
人皇第60代御醍醐天皇の延喜年間撰上せられた神社で全国3.132坐の一坐として、延喜式神明帳に所載の古社廷喜式内である
出羽の国九社の一社である。
秋田藩主 佐竹義格公は江戸前期の正徳年間中世を通じで廃絶していた内の二社「御嶽山 高岳山」の式内社を復活し以前からの一社(保呂羽山)を加え国内三社として再編成した。
保呂羽山ば断絶する事なく、現在に反んているが、他の二社は古代国家の変質内至平安仏教の浸透以降 式内社としての性格形式を失い、社家も又定着することなく廃絶し.又藩の努力の媒介によって復活したものである。
潮湯彦神社として復興された御獄山は奥羽山脈の西麓に近く後三年の役(11世紀)で清原家衝がたてこもり敗れた金沢柵の東方5Kmの地点にある霊山で.北側は平鹿、仙北両郡の境界になつており、南麓の塩湯彦神社里宮、鶴ケ池神社から東に進めば白木峰を越に北上盆地に達することができる要衝の地を占めている。
他の一社副川神社は仙北郡神宮寺嶽にあったが 秋田城の北門を鎮護する名目で今の山本郡と南秋田郡との境にある 高岳山まで北上して復活したのである。
正徳3年に大友大隅守永貞、同治部少輔福命の父子が御嶽山、高岳山の二社の再興を命ぜられ復活してから佐三山と称して尊敬せられ現在に及んでいる。

社頭掲示板



塩湯彦神社

御嶽山頂、標高744mに鎮座する塩湯彦神社は、役の行者の開山と伝えられ、927年、醍醐天皇が定めた「延喜式神名帳」に記された、県内で最古の神社として知られ、昭和46年(1971)豪雪のため社殿倒壊し昭和56年再建された。
五穀豊穣、家内安全、合格祈願、雨乞いの神として信仰されている。

社頭掲示板



塩湯彦神社

延喜式内社、出羽国九座の一神明帳記載神社。
 650年前一遍上人が再建したが、其の後荒廃の形となった。
 正徳年間佐竹藩主義格、茂木頼母に命じ保呂羽山神主、大友永貞同福命(よしのぶ)父子と共に宮地を踏査し旧跡を尋ね再興してより、明治に至るが、明治4年社領返上(30石)明治4年火災に罹り、その後再建したが浄財不足により拝殿仮建立であった。
 大正8年改築、その後雪害と暴風雨で大破損、昭和15年大改築のため奉願したが纏まらず、一部修理であったため、昭和38年の大雪で倒壊、石祠を建て御神体を奉斎し毎年の例祭は里宮である麓の鶴ヶ池里宮で施行する。
 旧横手市杉沢地区の青年達の協力を得て、浄財を募り、昭和54年より塩湯彦神社再建奉賛会を作って昭和57年に遷座祭を斎行する。

秋田県神社庁板



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