椙尾神社
すぎのおじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】小物忌神社 出羽国 飽海郡郡鎮座
          (旧地)椙尾神社【旧地】

   【現社名】椙尾神社
   【住所】山形県鶴岡市馬町字宮ノ腰169
       北緯38度45分54秒、東経139度45分52秒
   【祭神】事代主神 (配祀)天津羽羽神 竜田彦神 竜田姫神 月山神 大物忌神
   【例祭】6月5日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】欽明天皇3年の創祀という
       慶長17年(1612)6月4日最上義光寄進
       正保年間(1644〜47)社殿焼失
       萬治4年(1661)造営
       明治2年椙尾神社と改め
       同6年郷社
       同9年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       幣殿・手水舍・拝殿

   【境内社】八坂神社・八幡神社・大山祇神社・佐田彦神社・桜の宮・武藤家霊殿・皇大神社

欽明天皇の壬戌の年の創祀と伝えられ、又、勧請の神社ではなく古来の神跡であるといわれている。



由緒

鎮座地  鶴岡市馬町字宮ノ腰169
祭神   事代主神 天津羽々神 龍田彦神 龍田姫神 大物忌神 月山神
境内神社 皇大神社 八坂神社 大鳥神社 大山祇神社 八幡神社 佐田彦神社 さくらの宮 武藤家霊殿
祭日   例祭 6月5日、祈年祭 3月22日、新嘗祭 11月26日、月次祭 通夜講祭、元始祭、七種祭、太々神楽祭、斎倉祭(ゆぐらさい)、夏祭、風祭、大祓
神事芸能 氏子廻村獅子舞、太々神楽の倭舞
社殿   本殿 九坪、幣殿 九坪、手水舍一棟、拝殿 五六・五坪
主要建物 土蔵一棟、厠一棟
工作物  鳥居石造二基内一基県指定文化財、鳥居木造一基、手水所石造一基、狛犬石造一対、めつけ犬像石造一対、石碑一基、燈籠石造一対、同二基
境内地  34,461坪
氏子数  3,500世帯
由緒 
正保年間(1644〜47)灰燼の為社殿焼失、最初の鎮座は不詳であるが、欽明天皇の壬戌の年の創祀と伝えられ、又、勧請の神社ではなく古来の神跡であると云われている。中古に至って農耕盛んになるにつれ、風の神、瀧田彦神、瀧田姫神を勧請し、鎌倉時代に至り武藤出羽守、当国地頭に封ぜられて、月山神、大物忌神を勧請し、自ら神社の氏子となり、大山の城山を居城として尾浦城と称し厚く当社を崇敬し、大祭には自ら奉幣使前駆、後衛美々しく仕え奉ったと云う。又、延喜式内社出羽の九座を奉招し、羽州一国の総祭を奉行せられたと云う。後最上家入国、慶長17年6月4日最上義光より黒印高百七十石五斗二升二合を寄進せられた。しかしこれは武藤出羽守封高の十分の一であると伝えられている。最上家が滅び酒井家入国後も、代々の古例を存続して崇敬参拝され、今尚当社の神事として斎倉祭と称し武藤家の古例をつぎ斎行されている。明治以前は小物忌椙尾大明神と云われていたが、明治2年椙尾神社と改め、同6年郷社に列し、更に同9年には県社に列格している。明治37年には当時全国でも珍しい、神社後援の財団法人椙尾神社保存会が設けられた。これは神社の維持経営を永遠に保持できるようにと、当時の氏子総代が発起人となり氏子全域に呼びかけて設立したものである。途中で経済の変革に遇い再度、再々度の増資をし、その果実は専ら祭典費や修繕費等に充てられている。尚、当社は最初西浜の宮沢の海岸にあったが、人智産業等の発展に伴い現在地に遷られたと云われ、その名残として毎年6月の大祓には神輿が元の浜に臨幸し祭典を行ない、帰りには氏子の有志の方々が松明をもって迎えてくれる。これが「みな月の松明まつり」として近郷近在に知られている。社殿は応永年中武藤左京大夫讃岐守武藤政氏の造営されたものであったが、後改められ現存の社殿中本殿は萬治4年(1661)の造営であり、大正4年大正天皇御大典記念として大修繕を加えたもので、拝殿は文政9年(1826)造営のものである。又、社家は古来六供八太夫といわれ神宮寺六ヶ寺、社家八軒を数えたが、明治の神仏分離により寺院は一寺を残し、社家は一戸の減少を見ただけで現在も続いて奉仕している。尚又、慶長年中(慶長10年は1605年)武藤家の家臣、下治右衛門、原美濃守の寄進による石の鳥居があり、現在県重要文化財に指定されている。東南に月山を仰ぎ、東北に鳥海山を眺望、氏子数三千五百戸、旧大山、西郷、大泉、袖浦、湯野浜、宮沢、金沢の広範囲に及んでいる。
「めつけ犬」の伝説は大山の犬祭と称し多くの人々に知られ、庄内の三大祭の一つに数えられ賑わいを見せている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




石鳥居

山形県指定有形文化財
石鳥居
この鳥居は 両部鳥居の形式に属し、全体的に 関西文化の影響がみられる
石材は越前産硬砂岩を用い 島木 笠木は 一石で作られており 両柱の銘文から桃山時代末期の慶長16年に、最上氏の家臣下次右ェ門尉藤原實彦および原美濃守源頼秀によって建てられたものであることがわかる
昭和28年2月13日 県指定を受けた。

社頭掲示板



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