寛治5年(1091)源義家の東国遠征の際、賊軍の勢が強く、不利の時、部下の首藤主馬に大物忌・小物忌両社に祈らせたところ、戦勝に転じたので帰陣後、大刀と鏑矢を奉納したという。 永正年間に兵火によつて社殿が焼失し、社領は砂越の城主武藤萬歳丸に没収された。その際、御神体は焼失し、台座のみが残り、その焼残った台座を社地に安置して拝したので、大座大明神と云われた。 宝暦9年(1759)山楯の長久寺が別当となり、その後観音が主となり神社の称号なくなる。明治9年(1876)小物忌神社として郷社となる。 |
小物忌神社 社伝によれば、景行天皇の御代、武内宿禰の北陸巡視の際に、はじめて官籍に録せられたと云う。 三代実録に元慶2年8月従五位下勲九等を授けられ同四年従五位上授ける。実に式内の古社にして大物忌神社・月山神社と共に飽海郡の三座と称せられる。 なお、社記に「寛治5年源義家東国征討之時、賊勢甚強軍不利、将軍自知難勝、使侍臣首藤主馬祷大物忌小物忌両社、戦勝果有感應、得討賊陣之後奉大刀並鏑矢」とある。 嘉保2年拝殿を再建、天正年中兵災により社殿焼失し、社領は武藤氏に没収。以来戦乱にあったが、元和8年酒井宮内大輔忠勝入国後社殿は修復され明治9年2月24日村社に同年11月11日郷社に列せられ国幣中社大物忌神社摂社に定められて、明治35年3月25日県社に昇格した。 公式HP |