神功皇后「新羅征伐」に際して軍卒が集まらなかつたが、大三輪社を立てたところ軍衆が自ら聚つてきたという。 大神山の山麓にあつて、この山を御神体と仰いでいる。 社伝には往古社領は三十六町余を有したが秀吉によつて没収されたとする。 |
由緒 通称おんがさまの御祭神は大国主命です。私たちの生活に欠かせない水の神様が、目配山辺りで、麓の村々の田や畑の作物が豊かに育ちますようにと、大切な水を分配して下さるので、その恵みに感謝した昔の人々が、国土つくりの神である大国主命と共に、静かなこの森に鎮守の神としてお祭りした次第です。大国主命は、だいこくさまとお呼びし 因幡の白兎の話が物語るように、動物はもちろん、人々の病気を治す医薬の神様であり、大昔からお祝や色々な行事に用いられたお酒作りの神様としても有名で、その他、たくさんの御徳を備えられております。いつの頃からか、天照大御神、春日大明神をも併せてお祀りするようになりました。日本の正史として編纂され、720年にできた日本書紀には神功皇后の事跡に関連のあるお社と記されてありますが、その当時、朝鮮半島へ軍兵を進めた事実があり、それが語り継がれて日本書紀の記述となったのでしょう。更に、927年にできた、お役所の規則である延喜式の神明帳に筑前国夜須郡鎮座於保奈牟智神社と記載され、我国で古く由緒のあるお社であることがわかります。神話といわれながらも歴史の真実を伝えてる文献から、銅鏡などの出土品から、耶馬台国甘木朝倉地方説が強烈な説得力を持って私たちに迫ってきます。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大己貴神社 大己貴神社 筑前国続風土記によれば、「大神大明神は弥永村にあり、<延喜式神名帳>に「夜須郡於保奈牟智神社小一座とあるはこれなり。祭るところの神は大己貴命なり。今は大神大明神と称す。御社は南に向かえり。東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合わせ祭る。宮所神さびて、境地ことに勝れたり」 <日本書紀>に「仲哀天皇9年秋9月・庚午朔己卯(の日)、(神功皇后)諸国に令して船舶を集めて、兵甲を練らんとせし時、軍卒集い難し、皇后曰く必ず神の心ならんとて、大三輪社を立て、刀矛を奉りたまいしかば、軍衆自ずと聚る」とあり、9月23日(旧暦ゆえ、現在の10月)祭礼ありて、この日神輿御幸あり。御旅所は村の西・十町ばかりの処にさやのもとというところあり、これなり。その他、年中の祭礼たびたび有りしとか。いまはかかる儀式も絶えはてぬ。然れども夜須郡の惣社なれば、その敷地広く、産子(氏子のこと)殊に多くして、人の尊敬浅からず」との記載がみられる。 太宰管内志(国学者・伊藤常足編)によれば「<筑前神社志>に、(神功)皇后より後に嵯峨天皇弘仁2年(811)勅願ありてご建立あり。その後、661年を経て御土御門院文明3年(1472)、勅願としてご建立あり。その間、数度造り替えありといえども詳らかならず、伝われる縁起・記録類は天正15年(1587)より96年の間、仮殿に居ましける。寛文12年(1672)石鳥居建立。祭礼神幸の儀式は同13年に再興す。本社、貞享4年(1687)改造す。拝殿は元禄5年(1692)建立。同6年社領少々、黒田甲斐守寄付し給えり。神職松木氏(本姓大神)先祖より宝永2年(1705)まで62代相続せり」とある。 さらに、筑前国続風土記附録にも次の記録がみられる。「神殿一間半・二間半、拝殿二間半・四間、(中略)この村(弥永)及び甘木・隈江・楢原・甘水・持丸・菩提寺・千代丸・牛水・馬田・野町・高田・依井・大塚すべて十四村の産土神にして、夜須郡の惣社なり。頓宮地は本社の西南、八町ばかりにあり。東南十間余り、周りに松杉植わり、中に礎石あり。神幸の時は、ここに仮殿をも葺く。また町の中に浮殿の地あり。切り石ありて里人は神輿林と云う。社内に祇園社・黒殿社・八幡宮・現人社・水神・神池あり」 ●大己貴命は大国主命のことで古代日本の国づくりをされた神である。 ●大神大明神の「おおがみ」が訛って「おんが」となり氏子の人々は、お宮を「おんがさま」とお呼びしているとおもわれる。 ●筑前国続風土記は貝原篤信(益軒)が元禄元年(1688)編纂に着手し、宝永6年(1709)に完成した記録である。 ●延喜式神名帳とは平安初期の国家の法制書の施行細則で、醍醐天皇の延長5年(927)に奏進され、康保4年(967)に施行された延喜式の「巻第九・十神名上下」が、いわゆる神名帳である。 ●頓宮地は、御旅処すなわち神幸に際して仮に神霊を安置する神輿宿・頓宮のある地を言う。 平成4年3月 三輪町教育委員会 社頭掲示板 |
大己貴神社 限りないロマン、卑弥呼伝説…… 幻の邪馬台国甘木説は果してほんとうなのか? 通称「おんがさま」のご祭神は大国主之命(大己貴ノ神)です。私たちの生活に欠かせない水の神様が、目配山(水分山)辺りで、麓の村々の川や畑の作物が豊かに育ちますようにと、人切な水を分配して下さるので、その恵みに感謝した昔の人々が、国土づくりの神である大国主之命と共に、静かなこの森に鎮守の神としてお祀りした次第です。大国主之命は「だいこくさま」とお呼びし、「因幡の白兎」の話が物語るように、動物は勿論、人々の病気を治す「医薬」の神様であり、大昔からお祝いや色々な行事に用いられた「お酒」づくりの神様としても有名で、その他、たくさんの御徳をそなえておられます。いつの頃からか、天照大御神・春日大明神をも併せてお祀りするようになりました。 日本の正史として編纂され、720年にできた『日本書紀』には神功皇后の事蹟に関連のあるお社と記されてありますが、その当時、朝鮮半島へ軍兵を進めた事実があり、それが語り次がれて日本書紀での記述となったのでしょう。更に927年にできた、お役所の規則である『延喜式』の「神明帳」に、筑前国夜須郡鎮座「於保奈牟智神社」と記載され、わが国で古く由緒のあるお社であることがわかります。神話といわれながらも歴史の真実を伝えている文献から、銅鏡などの出土品から、邪馬台国・「甘木・朝倉地方説が強烈なせっとく力を持って私たちに迫ってきます。 この鎮守の森に身をおいて、古代人の素朴な心と英知、そして遅しい生沽力にあやかり柏手をうって祈りを捧げましょう。 ・弥生時代後期のころ創建。 ・日本書紀(720)に記される。 ・大同元年(806)大和朝廷より封戸(62戸)あり。 ・弘仁2年(811)勅願により社殿建立される。 ・文明3年(1471)応仁・文明の大乱のころ、勅願により再建される。 ・天正15年(1587)秀吉の島津征伐の折、兵火にかかり焼失する。 ・寛交12年(1672)石鳥居建立される。 ・反り橋、元和元年(1681)に作り直す。 ・天和2年(1682)京都の歌人、吉田靱負が大神社の縁起を綴る。 ・貞享4年(1687)本殿を修築する。 ・元禄5年(1692)拝殿を建立する。 ・天明4年(1784)に大神山(湯ノロ)の麓に祀る。 (大塚・弥永・依井の三区で牛馬の安全祈願) 昭和10年ころ、現在地に移し祀る。 ・明治11年(1878)再建する。 石鳥居は昭和10年(1935)に建立する。 ・昭和2年(1927)に改築される。 なで牛・台座は大正9年(1920)に設置の由。 ・大正2年(1913)に再建される。 石鳥居は昭和5年(1930)に建立する。 由緒書 |
大己貴神社 大己貴神社の歴史は古く、日本書紀(西暦720年)を始めとする歴史書他多数に記載されています。その由緒の始まりは、第14代仲哀天皇9年(西暦200年頃)とされています。 また927年制定の法令書『延喜式』巻十〔神名帳〕には筑前国の十一社のうちの一社に数えられ、他は現在の(1)宗像大社(2)織幡神社(3)筥崎宮(4)住吉神社(5)志賀海神社(6)志登神社(7)筑紫神社(8)竈門神社(9)麻手良布神社(10)美奈宜神社であり、古くより大変由緒のある神社であります。 西暦200年頃〔仲哀天皇9年〕神功皇后が、現在の朝倉市(秋月)野鳥のあたりで勢力を持っていた豪族「羽白熊鷲(はじろくまわし)」を征伐後、新羅征討を起こすにあたり兵を募ったが集まらず困っていたところ、大神社”おおみわのやしろ”(または大三輪社と記載し)を建て、太刀や矛を奉納したところ、兵が集まったと『日本書紀』に記載されています。 公式HP |
大己貴神社 当社は、延喜式神名帳に「筑前夜須郡一座小於保奈牟智神社」とあるに當り、和漢三才図曾に「筑前国大己貴神社在夜須郡彌永村云々」と見えたり、その創立は神功皇后紀に「元年(仲哀天皇9年秋9月庚午朔己卯、令諸國集船舶練兵甲時軍卒難集、皇后曰必神心焉、則立大三輪社以奉刀矛矣、軍衆自聚」と記されたるは、即ち当社の事にして、又釈日本紀に「筑前風土記に曰く、気長足姫尊、欲伐新羅整理軍士、発行之間道中逃亡、占求其由、即有崇神名曰大三輪神、所以樹此神社遂平新羅」とある即ち当祭神の事なり、而して当社は、往昔より特に朝廷の崇拝あつく、平城天皇大同元年、神封六十二戸を當大神に充て給ふ由見ゆ、(新鈔格符神祇志料)次いで嵯峨天皇弘仁2年、勅願ありて社殿御建立あり、共後661年を経て、後上御門天皇文明3年勅願所として御建立あり、其間数度造営ありといへども詳ならず、傅はれる縁起記録は、天正年中兵火にかかりて悉く焼失し、天正15年より96年の間仮殿にましまし、寛文12年石鳥居建立、同12年に祭礼神幸の儀式を再興す、本殿は霊元天皇貞享4年に改造し、拝殿は東山天皇元禄5年建立せり、(当村神社誌に拠る)現今のもの即是なり、祭神は大己貴神を主神とする事明かにして、他の二神は後に合せ祀りたるものなるが、其年月等未だ明かならず、(和漢三才図会、和爾雅などには三輪大明神とし相殿に東天照大神、西春日明神とせり)社領は、往古36町余を有したりと伝ふ、牛木、大塚、依井、甘木等に、上大神田、下大神田、島巡りなどの地名あるは、其旧跡なり、秀吉公の時没収せらる、後元禄6年社領六石、黒田甲斐守より寄附せられしが、維新の際(続風土記筑前神社志社記等を参照す)廃せられたり、旧と大神社又大三輪大明神と称し、当郡の惣社たり、明治5年11月郷社に列し、同29年9月縣社に昇格す。 社殿は本殿、拝殿、中殿、文庫等の建物を有し、境内948坪(官有地第一種)社地頗る幽閑にして諸木欝蒼たり。 明治神社誌料 |
大己貴神社 大己貴神社 おおなむちじんじや 福岡県朝倉郡三輪町。旧県社。大己貴大神を主祭神とし、相殿に天照皇大神・春日大明神を祀る。もと大神社・大三輪大明神と称し、俗にオンガサマと呼ばれる。『日本書紀』や『釈日本紀』に引く『筑前国風土記』によれば、新羅征討にあたり軍卒が集まらなかったので、神功皇后は当社を建立し刀矛を奉ったところ成功したと伝わる。 延喜式内社にも列した地方の古社。例祭は10月23日で、御神幸がある。 神社辞典 |