美奈宜神社
みなぎじんじや 所在地 社名















   【延喜式神名帳】美奈宜神社3座(並名神大) 筑前国 下座郡鎮座

   【現社名】美奈宜神社
   【住所】福岡県朝倉市荷原2421
       北緯33度25分36秒、東経130度43分8秒
   【祭神】天照皇大神
       (配祀)住吉大神 春日大神 (合祀)神功皇后 武内宿禰

   【例祭】10月22日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】神宮皇后の時美奈宜川上「池辺」に創祀
       大宝元年(701)旧陣地粟尾山頂に社殿を建立
       貞観元年(859)従五位上
       元弘3年(1333)大宮谷(ここから100m上)へ遷
       天正2年11月(1574)領主秋月種実の頃現在地へ
       寛文年中三奈木神社と改称
       明治5年村社
       明治12年郷社
       明治34県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】神宮皇后の時美奈宜川上「池辺」に創祀
        大宝元年(701)旧陣地粟尾山頂に社殿を建立
        元弘3年(1333)大宮谷(ここから100m上)へ遷
        天正2年11月(1574)領主秋月種実の頃現在地へ

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「栗尾大明神」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】田神社・高木神社

社伝では、古処山の麓の野鳥という地を荷持田にあて、当時熊鷲はここを本拠とし、皇后は喰那尾山(栗尾山)に陣を布き、これを打取つたとしている。この時の三神の冥助により栗尾山の麓三奈木川のほとり「池辺」にヒモロギを立て神を招いて戦勝を奉告した。のち仁徳天皇の勅願によつて神社を勧請したのが美奈宜神社のはじまりだとしている。


美奈宜神社

式内美奈宜神社
祭神 天照皇大神 住吉大明神 春日大明神
相殿 神宮皇后 武内宿祢を併せ祭る
由緒 第14代仲哀天皇は白髪山を本城とする敵、「羽白熊鷲」を討つため軍を進められていたが途中病気で急逝。しかし神宮皇后は喪を秘して武内宿祢等を從えて喰那尾山頂(ここから北西200m)の地で陣をしき謀議の末賊を討たれた。これはお告げをうけた三神の助であるとして美奈宜川上「池辺」(ここから東へ300m)の地で戦勝奉告をされた。後に仁徳天皇(神宮皇后の孫)の勅願により「池辺」にこの神を祭るようになった。(西暦312年頃)後世ここを「本宮」と云う。
遷宮 1. 大宝元年旧9月22日(西暦751年)喰那尾山頂の陣跡へ。
2. 元弘3年(西暦1333年)大宮谷(ここから100M上)へ。
3. 天正2年11月(西暦1574年)領主秋月種実の頃現在地へ。
神領50町 神官社僧36人仕えていた。
社格 貞観元年正月27日(西暦859年)「從五位上」と云う位を給う。之は「三代実録」の文中に見える。又延喜式十巻神名帳(西暦920年頃の書)に「筑前国下座郡美奈宜神社三座」名神大と記載あり
祭礼 10月22日の「おくんち」には獅子、羽熊等お供約200人の御神幸行列が今なほ行はれている。

社頭掲示板



美奈宜神社

鎮座福岡県甘木市三奈木・寺内
美奈宜神社  抄史
祭神
  住吉大明神
 天照皇太神宮
  春日大明神
配祀
 神功神后
 武内宿禰
創設
第14代仲哀天皇は、山口県長門一の宮から、筑紫方面へ軍を進めておられた。しかし、天皇は急に病気になって亡くなられました。神功皇后はこのことを秘めて武内宿禰等を従えて敵対する羽白熊鷲を討つために小山田邑を軍立ちされた。
当時熊鷲は、白髪山(古処山)を本域として良民を苦しめていました。皇后等は喰那尾山に陣を布き、武内宿禰の軍略を用いて之を討ちとられた。そこで賊の大将を討つことができたのは、出発の時小山田邑でお告げをうけた「三神」のお助けによるものとして、三奈木川のほとり「池辺」の地に「ヒモロギ」を立て、神を招いて戦の勝利を奉告された。
本宮
のちに神功皇后の孫第16代仁徳天皇の勅願によってこの「池辺」の地に神社を勧請されました。これが美奈宜神社のはぢまりとされています。 後世こゝを「本宮」又は「元宮」と言います。
社格
第56代清和天皇の貞観元年正月27日「従五位上」を授けられる。
=奉授筑箭國従五位下美奈宜神社従五位上=之は「三代実録」の文中にみられます。
第60代醍醐天皇勅撰書、延喜式第十巻神名帳の中に「筑前國下座郡美奈宜神社三座大名神」の記載がある。
延宝6年10月18日、京都の神祇官領長吉田卜部兼連朝臣はこの宮が式内社であることを表し、後世の証拠として白絹に直筆で天照皇大神 住吉大神 春日大神 美奈宜神杜
と書いて、更に宰臣鈴鹿守に命じて「青龍・白虎・朱雀・玄武」の四神の号を絹の布四流に書かせて奉納した。
御遷宮
上宮
大宝元年3月22日神詑によって旧陣地跡喰那尾山(栗尾山ともいう)山頂に社殿を建て同年9月22日に移す。
この時神功皇后と武内宿禰は、本社に縁由深いものがあるとして相殿に祀る。
中宮
喰那尾山頂は暴風雨等憂い多いため五町程下の「大宮谷」に社殿を移す。こゝを「中宮」と云う。
現在
天正2年領主秋月種実・種長父子は御神に対する尊崇信心深く「大宮谷は境内狭く、谷も陰湿、しかも道険しく参拝にも難儀する」として、現在のところに杜殿を建てゝ移す。

この頃は神領五十余町、十余坊ありて神官、社僧等36人奉仕していました。

天正17年豊臣秀吉が九州征伐のとき敵対した秋月家が「日向國高鍋」に移されるとき神領・社人・社僧の所領も悉く没収さされたので生活を求めて思い思い離散、多くは秋月種実の後を慕いて「日向」に至ったと云う。此時古来伝わる演義や多くの神宝も紛失した模様で、あとには大宮司だけが残ったと云う。
社殿再興
福岡城主黒田甲斐守長政の大家老黒田美作一成が、寛永16年旧9月社殿を再興し、更に三代黒田三左右衛門一貫が寛文年中再建したものが今の社殿である。
鳥居
元禄6年11月、十村の産徒(氏子)が寄進した。(二の鳥居)
御輿
寛永5年9月吉日御輿建立
貞享2丑年御輿建立
正徳4年御輿建立「大阪にて仕立て」の記録あり。
現在のみこしは昭和38年の新調である。
御旅所(おくんちの御神幸北)
1.寛永年間の始めまでは本宮であった。しかし川を隔てゝおり、若し水量が増したときにはお供のことを考慮して、一の鳥居の下流の方を御旅所と定めて形ばかりの御神幸が行なわれていた。
2.宝永3年9月御幸改り「桑ノ木津ル」(桑鶴)…こゝは村北にあたり、御社よりは七町ばかりの距離があり宮司田、燈油田等の小字名あり、昔の神領であったと伝う。
3.古来御幸は御社より二十余南の「二本木」と云う所、上下に土器田、燈明田と云う字名あり……
4。「村西の方二十三町ばかりの「桑原道」に二畝ばかりの野地あり往古はこゝまで御輿御幸あり」と伝う。
5.その後星熊の東方に清浄な地を選んで(四方に松を植えてしるしとし御輿を休めて「九番の神楽」を奏する等の祭礼があってのち還御せられていたと云う。
御祭礼"
毎年10月22日「五穀豊穣」を感謝する秋の大祭「おくんち」には、約200人の御供行列が終日行なわれるが、この行列は昭和49年10月「甘木市無形文化財」に指定された。
甘木市無形文化財指定
10月22日
美奈宜神社 御神幸御供行列進行案内
時刻  お供・行事など  場所・位置・みどころ
午前6時半〜7時  荷原(ニナイバル)羽熊・太鼓の振込み   寺内橋手前から神前へ
午前10時頃までに  全部のお供振込み勢ぞろいをする    同右
午前10時  祭典浦安の舞奉納   神社拝殿
正午    鬼寄せ(八匹)     寺内橋(50m)中央
零時半  獅子  三番六頭 神社拝殿前広庭
     おくだり始る   所作・かけ声は各組ごと異る
     総勢約200人に  
              行列を横切ることはならない
1時15分  荷原羽熊(毛槍)  寺内橋上
1時半    屋形原〃      〃
1時45分 下三奈木〃     〃
2時     上三奈木〃     〃
2時半    おみこし      〃
4時     祭典       御旅所
                川添いに約800m
4時半    おのぼり始る(おくだりの順)  御旅所を出発して神社へ
5時半    祭典       神社拝殿前
・この日には餅をつき、甘酒をつくり、ごちそうを造る。
・お供に出る青年の家では朝の膳に鯛を飾り御神酒をいただいて出発する。
・昔は5日間の祭典が行なわれ、お旅所に一泊されていたと云う。

由緒書



美奈宜神社

仁徳天皇の御宇、美奈宜川上の池邊といへる所に始めて創祀せしを、文武天皇大宝元年3月神託ありて、同年9月22日栗尾山に遷座し給ふ、然るに其社地たるや、山の絶頂にして、暴風の憂あるが故に、中世山の麓なる大宮谷に移りまします、其後領主秋月長門守種美、其子駿河守種長父子、深く此神を尊敬し、大宮谷は通路険岨なるを以て、天正2甲戌年11月当地へ移さる、其後国主黒田甲斐守長政の家臣、黒田美作一成当郡三原木村に居住し、寛永16卯年9月再建ありだり、今の社殿即ち是也、三代実録に、貞観元年正月、筑前國從五位下美奈宜神に、従五位上を授け奉られたる事見えたり、明治5年村社に定まり、同12年郷社に列し、同34年縣社に昇格す。
社殿は本殿、渡殿、拝殿、神輿庫、神門、石鳥居、社務所を具備し、境内1140坪、(官有地第一種)を有志、老木欝蒼として頗る神寂たり。
因に云ふ、当美奈木神社は、同部蜷城村字林田にある社と社名同一なるを以て、古來その正偽に関し、學者両派に分れて論ある社なりとす、今当社に關する論拠の資料を挙ぐれば、 今当社に関する有力なる史料の、實着なる研究をなせるものは、國人末永虚舟氏の筑前霊鑑、及筑前績風土記拾遺、太宰管内志、筑陽記等此の國の地誌書は、貝原氏の続風土記を除くの外は大方荷原村栗尾神社に左担せざるなし、又美奈宜村旧事覚帳にも此由委しく論じたり、今其等の諸説の要点を摘録すれば、
一、本社は往古より式内美奈宜神社と云ひ伝へたり、然るに喰那尾山に御鎮座ありしより、喰那尾明神とも、栗尾明神ともいへり。
二、本社は三奈木村にあらずして、其隣村なる荷原村にあり、よりて美奈宜神杜にあらずと云ふものあれど、荷原は三奈木の支村なること、績風土記拾遺等に詳なれば、往古は三奈木の内なりしこと明也、且三奈木の隣村なる城、矢野竹、山見、田代等の諸村は、何れも三奈木の支村なりしを、慶長7年に分れて別村となれること明なれば、本村も又三奈木の内なりしことを証するに足る。
三、往古より三奈木、城、矢野竹、山見、田代、屋形原、柿原、堤、板尾、及び荷原の十村は、栗尾明神を以て産土神とし、就中本社の祭輿を、主として三奈木村より執行す、これ美奈宜神社たる一証なり。
四、旧領主秋月家よりの社領寄進状に、美奈宜神社とあり、是亦一の確証也。
五、九州軍記に見えにる美奈木彌平次の宅跡は、今の荷原の内字石松といふ所にあり、亦以て荷原の美奈木の内なりしを証するに足れり。
六、本社に美奈木郷中の大社にして、往古は社具甚多く、社殿壮麗にして、神人社僧多かりしが、秋月種實氏移封の後大に衰頽せり、然れども今日に至る迄一郷の大社たり、亦以て傍証とするに足れり。
七、本社の大社にして、領地多かりしことは、土地の字に、御供田、燈寵田、僧都田等、其他種々の名称の存するにても明也、
と云ふにあり、荷原村、栗尾明神社の方も、林田村と同じく、古書の徴証とすべきもの多からざれど、林田神社にして既に美奈宜神社ならずとせば、美嚢の郷中に求めざるべからず、然るに三奈木近傍には他に類社なく、かつ往古より今日に至る迄、三奈木外九村の産土神としつつあるによれば、栗尾明神は、まことの式内美奈宜神社なりと思はる、されども今確かに當社なりと断定を下すを得ず暫き記して以て参考に質する而巳。

明治神社誌料



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