美奈宜神社
みなぎじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】美奈宜神社3座(並名神大) 筑前国 下座郡鎮座

   【現社名】美奈宜神社
   【住所】福岡県朝倉市林田205
       北緯33度22分28秒、東経130度40分25秒
   【祭神】素盞嗚命 大己貴命 事代主命
   【例祭】10月21日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】貞観元年(529)従五位上
       永正6年(1509)秋月種時寄進の神像後板銘に「蜷城大明紳」
       寛文の頃美奈宜大明神と改称
       宝暦元年(1751)下座郡総社
       明治5年郷社
       明治30年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「蜷城大明神」「林田神社」と称していた
   【公式HP】 美奈宜神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿

   【境内社】

神社の創建は新羅征伐の折、大己貴命・素盞鳴命。事代主命の三神の冥助により勝利を得たので、凱旋後神功皇后摂政2年この三神を祭る社を建てた。


美奈宜神社

今から1800年前、古処の山から見下したところに筑後川が流れ、よく土地の肥えた豊かな村がありました。
 しかし、古処の山には羽白熊鷲(はぐろくまわし)という悪者が住んでいました。時々山を下りてきて、村人を苦しめました。村人は本当に困りました。
 神功皇后が九州にお見えになった時、悪者退治を、お願いしました。
 皇后様は、神様にお祈りされて「この潮干玉を使って川の水をからにし、川蜷に頼んで、一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉を使って、一度に水を入れ水攻めにして滅ぼしなさい」とお告げになられました。
 このあと、村は静かな平和な村となりました。神功皇后様は神様をお祭りするお社を建てようと思われ、1羽の白鷺をお放ちになりました。「白鷺の降りた所に、お社を建てたいと思います。どうぞ、その場所をお示しください。」と申されました。
 白鷺は空に舞い上がり、筑後川に沿ってしばらく飛んだ後、こんこんと清水の湧きでる所に舞い下りました。
 皇后様は、そこを白鷺塚と命名され、その近くに神様を祭るお社を建てられて蜷城(になぎ)を美奈宜(みなぎ)とあて、美奈宜神社と呼ばれました。また川蜷が守ってくれた村里をニナシロと呼びました。ニナシロがだんだんなまって、ヒナシロという地名なったといわれます。
美奈宜神社の神様
今から1800年前、父君景行天皇の教えにそって、仲哀天皇は皇后と熊襲を征伐されたが、不幸病にかかり崩御されました。皇后はこのことを泌し、その根幹新羅を討つべく、出師の計画を立て、兵員を集め、兵船、軍器を整え、神々を祭って本邦最初の外征に肥前名護屋から出征していきました。
 皇后は航海中船中で素戔嗚尊、大己貴命、事代主命の3神に戦勝を祈願されました。海上恙なく船は新羅の港に到着し、戦端は開かれました。
 戦いは連勝し3カ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗、百済も来貢し、肥前、橋の津に凱旋されました。そのあと戦争に勝利を祈られた3神を祭られました。その神が美奈宜神社の3神でございます。

公式HP



式内大社 美奈宜神社略記

今から1800年前、父君景行天皇の教えにそって、仲哀天皇は皇后と熊襲を征伐されたが、不幸病にかかり崩御された、皇后はこのことを秘し、その根幹新羅を討つべく、出師の計画を立て、兵員を集め、兵船、軍器の準備を整え、神々を祭って本邦初の外征に、肥前名護屋から出征して行った。
皇后は航海中船中で大己貴命・素盞嗚尊・事代主命の三神に戦勝を祈願された、海上恙なく船は新羅の港に投錨、上陸して戦端は開かれた、戦いは連勝し三ヶ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗、百済も来貢し、肥前、高橋の津に凱旋された、そのあと戦争に勝利を祈られた三神を祭られた、その神が美奈宜神社三神である。
主な祭礼
1月1日 (歳旦祭) 4月29日(春祭)
7月30日(夏越・芋の輪) 10月17日(神課祭)
10月21日(おくんち)御神紳幸 11月最終日躍日(新嘗祭)
・県指定無形文化財(蜷城の獅子舞)おくんちに奉仕
・弘化4年(1847)1650年祭執行
・白鷺塚
三神宝賽の地は、白鷺が羽を休めた所で、竹の行叢生する片延字鷺塚一番地、白鷺塚である。

社頭掲示板



美奈宜神社

神功皇后摂政2年の創立なり、皇后三韓を征し給ふや、三神冥助あり、因つて凱旋の後、蜷城大明神と称して之を官郷内に祭る、蜷は美奈と訓す、美奈宜と書するに假宇に拠れり、(官郷と唱ふる地は、長田、八重津、徳淵、上畑、中村、鵜本、片延、林田の七ヶ村をいふ)延喜式神名帳に「筑前国十九座下坐郡三座並大美奈宜神社名神大」とあるは、即ち當社なり、昔境内方九町余ありしも、世を経て田地となり果てたり、其総門は上畑村にありしとて、今なほ其名を残せり、又神社を距る三丁許鳥居の祉あり、秋月長門守時代迄は神領猶三十町を存せりといふ(社記に拠る)元禄縁起(洛陽吉田定俊著述)に「昔は神田百三十町を有し、筑後竹野郡恵利、三本木、朝帰、床島、鳥買、高食、千原、西原八ケ村の氏神として崇敬厚く、当時(元禄の頃なり)恵利村に神幸ありきといふ、古来下座郡総社として尊崇厚く、明治2年5月、福岡藩庁より供米拾俵を寄附せられ、翌3年12月之を廃し、改めて社領三十五石を寄附し、内十石を御供米とし、余を祠官の領に充てたりしも、廃藩置県となりて此事廃せられ、5年祠官祠掌を置き、同11月3日郷社に列し、同30年縣社に列す、猶当社を式内社の其れなりとするは、国人貝原篤信翁、其著筑前績風土記に於て、殆ど當社を之に擬し、次いで貝原好古の和爾雅、村山正知の美奈宜神社考等、皆當社を以て式内社となせり、其論拠とする処は、社伝を原とし、次に林田村に今の三奈木村より離るる事遠けれど、古は一郷といふも頗る廣ければ、三城郷も、今の三奈木より林田長田邊迄に亘りしなるべく、太平記に三城渡と見えたるは、林田の隣村長田の渡なるにて明なるべく、且つ又古来社領も多く、境内も広かりしこと等に徴して明なりとせるものの如し、されど三奈木村大字荷原にも、美奈宜神社ありて縣社なり。
建物は本殿、拝殿、渡殿、神輿殿、炊所等を具備し、境内七百六十除坪(官有地第一種)あり、区画整然たり。
因に云ふ、美奈宣神社は同郡三奈木村荷原にもありて、學者中頗る論ある社なり、今當社こそ式の名神大社なれと主張する所を挙くれば、貝原篤信の筑前績風土記には「當社は即ち下座郡林田村林神社なるべしとし、貝原好古氏の和爾雅には「美奈宜神社は、在下座郡林田村と断定を下せり、又村山正知氏の美奈宜神社考証にも、当社を以て正なりとす。
貝原翁は其序に「邦君源姓黒田氏光之公下命、令綴筑前績風土記之曰、使貝原篤信貝原好古村山正知経謄郡邑考定事實三人相議以当社為美奈宜之神社と云ひ、其他和漢三才圖曾以下の諸書にも、皆翁の説を祀述して、林田の社を當社として、以て式社と定めたり。
今其れ等の諸説の要を摘起すれば、
一、林田村の神社は昔より式内美奈宜神社なりと云へり。
二、林田村は、今の三奈木村よりは程遠けれど、古は一郷にても頗る廣き所もありたれば、三城も其類にて、今の三奈木より林田長田の邊までかけて、三城郷と云ひしなるべし、之は太平記に三城渡と見えたるは、林田の憐村長田の渡なるにて明なり。
三、神功皇后三韓御征伐の時、事代主神託宣の事書紀に見ゆ、然るに此神皇后を助け奉りて功ありし由、社伝に見えたるは古書に符合す、これまた本社の式社たる証也。
四、永正6年秋4月、種時寄進神橡後板銘に、蜷城明神とあり、これ又式社たる証なり。
五、本社は往古は社領多く、境内も広かりしこと古書に徴して明なり、これも亦式内美奈宜神社たる一証也。
六、然るに荷原村にては、栗尾明神を美奈宜神社なりと云へど、栗尾明神は美奈木村にあらすして、荷原なれば、彼は式社美奈宜神社にはあらす。
と云ふにあり、今この六ヶ条の理由を熟考するに、就中必要なるは第二の理由なりとす、何となれば、美奈宜神社と云へば、美奈宜の地なるべきこと言ふまでも無ければ、今の林田村は若し古への美奈宜の郷の内ならずとせば、是非曲直を論するまでも無きを以て、績風土記及林田村美奈宜神社考にも力をきはめて之を弁じ、績風土記には「今美奈宜と云ふ里より林田迄は遠けれど、一邑の間廣き所他に例あれば、古は林田の邊までも、美奈宜の内なりしなるべし」と云へり。
右の如く、其説頗る有力にして、然も根拠あるに似たり、されど真に何れが正なるかは、今直ちに断定する事能はす、只採録し、参考に費する而巳。

明治神社誌料



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