当社を竃門神社(名神大)の本宮とする説がある。 |
宝満宮 郷社 寳滿宮 筑紫郡山家村大字山家字松原 祭 神 神功皇后,玉依姫命,應神天皇 由 緒 創立不詳,寳滿宮由来書に曰く,當社山家寳滿大神は勧請由来の義に在らす。化現より以来降臨の本津宮にて萬代不易の廟窟也と神俗共に申傳侍る。その後人皇37代孝徳天皇(附記孝徳天皇は代26代なり)大化2年丙牛歳神功皇后應神天皇を奉祭せりと云ふ。寳滿宮由来書に曰く,當社山家寳滿大神の由来を尋ね奉るに海神豊玉彦の御子玉依姫命と申奉る地神5代鵜草葺不合尊の神功皇后也治世八十三萬六千四十二歳神武天皇を日向の國高千穂と云ふ所にて産み給ひ然後玉依姫命山家奇魂之地に入給ふと也。人皇15代姫帝神功皇后(附記,神功皇后は天皇としては數え奉らず)三韓退治の時當社の御神出現あり吾は是神女なり名は豊姫命と申と宣玉ふ干珠滿珠を父豊玉彦に偕受け官軍を助け給う云々とあり。 寳滿宮縁起に曰く, 人皇90代後宇多院(附記後宇多天皇は第91代なり)弘安4年に蒙古國入寇す時に山の形海水にうつる賊恐れて以て石ありすとす或は社中より光物飛散して賊船を漂泊はす或は賊皆神罰を蒙りて船中に悪疾を憂ひて迷動し終に陸に上る事を得ず滅ひうせにけりとなん一重に當社大神の神變なりと申傳へ侍る。同後宇多院の御宇に筑前守藤原經衝と云ふ人大なる旱にあへり雨を此の神に祈る時鏡を鑄て以て神前に掛け和歌を詠して曰く「雨降れと祈る印の有るならは水鏡とも思ふへきかは」と(此歌新續古今集に見えたり)茲に於て雨降ること大なりと云ふ。 又源紹運願書を捧けて曰く大神出現於世慈念衆生猶如赤子威加四海徳播九州昔海外異類毒亂國經以大神之威神力數拒布之朝家信敬老中使降綸■尊國総社と云へり斯る尊き御神なるか故に國々所々に勧請して崇祭らずと云ふことなし云々。 寳滿宮縁起一節に曰く, 當社山家寳滿大神は蓋し竈門大神御一體なり即ち筑前國三笠郡山家庄の懸社として民生安堵の靈壇なり。 承徳3年坤の歳夏4月中旬に新に御神託ましましけるにそ皆人心耳をすましたる其の年造營成就して神體遷宮祝儀を陳る中に御巫女にて託て宜く我異國より歸朝して此所に鎮座すること星霜既に1400餘年を經て今に至りて社頭七度の造營に及ふと雖も就中今度の造營を以て神慮納受ましますことまえまたゞひに過たり猶も神忠を盡さは宣敷長久を守らんとて神は昇らせ給ひしなりと。 寳滿宮由来書に曰く。 人皇54代仁明天皇の御宇承和7年4月中使を下し從五位上を授け給ふと續日本後紀に見えたり。 人皇55代文徳天皇宇之御宇嘉祥3年10月勅使を下し筑前國縣夕社の神に正五位の下を授け給ふと文徳實録に見えたり。 人皇56代清和天皇の御宇貞觀元年正月27日正四位の下を授け給ふと三代実録に見えたり。 寳滿宮由来書の一節に曰く, 人皇57代陽成天皇の御宇元慶3年6月8日勅使を下し正四位の上を授け給ふ。 人皇73代堀河院嘉承元年10月3日當御神に正一位を授け給ふ勅使は太宰權帥大江朝臣許[也和歌を詠して奉る。「白幣神乃威を摶{津宮竈門の山もおなし和魂」幣帛を捧け此歌を奉納し給ふ于今御寳殿に有之とあり。 天正15年小早川隆景公當國筑前を領し給ふ時當社の寳滿宮は竈門山寳宮の本宮たるに依て神領一町五反の田地を寄附し給ふ)今に田の字に殘れり)然るに隆景公の用紙秀秋卿の時該社領は總て沒収せらるとあり。 永正18年辛巳大檀那筑紫小野守藤原朝臣滿門社殿造營すと棟札あり。 承應2癸巳暦夏吉辰大檀那松原筑前守豐朝臣忠之社殿造營すとの棟札あり 天明乙巳年孟春3月吉日氏子中にて社殿を再興せりと云ふ棟札あり是れ則ち今の社殿なり10月19日は恒例の大祭として神輿を笠懸の遙宮に渡御ありて神楽を奏し笠掛ひ式を執行し其日遷御なる此時伶人楽を奏して神輿に陪從す其お道路を音楽道と稱す此の外年中の祭數多し祠官神人25人ありて是れを執行せしも弘治3年7月九州の探題大友28代の後胤左衞門督義鎭の嫡子義統と申す者邪法に溺れ神社仏閣を沒倒せり。 當社領も檢地檢斷せられし故祭禮も絶え果て又社家神人等は皆農人に下れりと云ふ。 欽明天皇の御宇4月吉日選中申酉祭始と云々。 西宮記に曰く延喜15年4月中9日配祭始常云々。 賀儀に葵祭有り此の祭に勅使下り奉幣を捧げ葵を以て祭らるゝ由所見有之云々。祭過きて其葵を大内に捧け奉る此の祭は大事なりとあり。 明治5年11月3日村社に列せらる。 明治6年9月10日郷社に列せらる。 例祭日 6月18日 神饌幣帛料供進指定 昭和6年10月3日 主なる建造物 神殿,拝殿,渡殿,参籠殿 境内坪数 1845坪 福岡県神社誌 |