竃門神社(上宮)
かまどじんしゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】竃門神社(名神大) 筑前国 御笠郡鎮座
          (下宮)竃門神社(下宮)

   【現社名】竃門神社(上宮)
   【住所】福岡県太宰府市北谷字宝満
       北緯33度32分23秒  東経130度34分9秒
   【祭神】玉依姫命 (配祀)応神天皇 神功皇后
   【例祭】11月15日 例大祭
   【社格】旧官幣小社
   【由緒】白鳳2年(673)上宮創建と伝
       延暦22年(803)最澄が竈門山寺で唐への渡海の安全を祈願
       承和7年(840)従五位上
       嘉3年(850)正五位上
       貞観元年(859)従四位下
       元慶3年(879)従四位上
       延喜3年(903)下宮建立
       天元2年(979)太政官符に記載
       長治元年(1104)宝満山をめぐつて石清水八幡と比叡山の間に闘争
       嘉章元年(1106)正一位
       戦国期山中の建造物・古文書・宝物等も焼失
       明治3年山伏は奉仕を禁止
       明治5年村社
       明治28年官幣小社

   【関係氏族】
   【鎮座地】古くよりこの地に鎮座

   【祭祀対象】本来は山を祀る
   【祭祀】
   【公式HP】 竃門神社
   【社殿】本殿神明造コンクリート造
       拝殿

   【境内社】

標高829mの宝満山頂上に鎮座する。
天智天皇3年(664)水城を築き、大宰府を現在の都府楼跡の位置に移した時、宝満山がこの東北方にあたるので、鬼門よけのために八百萬神を祭つたのが神祭の始まりである。
また、天武天皇2年2月10日、心蓮という法相僧が山中で修行中、玉依姫が示現し、これに感嘆した心蓮が奏聞し、天皇は有司に宣下して社を建てた。これが上宮のはじまりである。
明治以前には、上宮、中宮、下宮の三箇所に社があつた。
廃佛毀釈の際に、講堂・神樂堂・鐘楼などがあつた中宮付近は完全に破壊された。


由緒

御祭神は神武天皇の御聖母玉依姫命であります。命は、海神の女で鵜鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の妃となり五瀬命・神武天皇等四柱の御子を産まれた後御子の教養と建国の大業に心をくだきこの竃門山に登られて祈念されたと伝えられる。降って天智天皇の御代大宰府政庁(都府樓)建立に当たり竃門山は鬼門にあたるので勅使を派遣して厳かに祭祀を行い大宰府政庁の守護神とされた。ついで天武天皇白鳳2年(673年)神殿を創建されたのが当神社のはじまりで以来皇室の御信仰も篤く延喜式神名帳に名神大社にに列するとあり白川天皇の御代から九州二島の神と崇められました。戦国時代に入って社殿は度々の兵火に焼かれましたが黒田長政が筑前藩主となって再築されました。明治維新後は村社となっていましたが明治26年官小社に昇格して昭和20年まで社格を保ってきました。お社は上宮・下宮に分かれ上宮は宝満山々頂(830m)の大盤石の上に鎮座されています。下宮の御社殿は昭和初年に造営され現在に至っています。古歌に「春は萌え秋は焦がるるかまどやま霞も霧もけぶりとぞみる」清原元輔と歌われ多くの歌人達に詠まれている名山である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




竃門神社

ご祭神
   玉依姫命(たまよりひめのみこと)
   応神天皇(おうじんてんのう)
   神功皇后(じんぐうこうごう)
霊峰 宝満山の麓にご鎮座する竈門神社。若い女性を中心に「縁結び(良縁)の神様」と親しまれ、また「厄除け(やくよけ)・方除け(ほうよけ)の神様」と信仰が厚く、春のお花見や秋の紅葉はもちろん、宝満山の登山者で一年中にぎわいます。
神話と歴史
我が国の農業政策、農業の在り方について議論されています。早苗が風にそよぎ、稲穂が頭を垂れる様は、まさに日本の原風景と言えるでしょう。お米が日本人の主食であることに変わりありません。単に政治的・経済的な視野からだけではなく、文化的・歴史的な事もよくよく考慮して議論をしていただきたいものです。
天皇陛下がお田植えや、刈入れをされている様子を新聞やテレビでご覧になったことがあると思いますが、なぜ天皇陛下は自らお米作りをなさるかご存知でしょうか。
それは、我が国の正史として撰修された「日本書紀」に、天照大御神が孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)を高天原から、この国につかわされた時に、高天原で作った稲穂を渡され「これを栽培して主食にしなさい」とのお言葉(神勅)に由来します。邇邇芸命の子孫である歴代の天皇陛下は、このお言葉を守り伝え、今日に継承されているのです。
我が国の宗教や信仰について多くの著作がある、国際日本文化研究センター所長の山折哲雄氏は、「西欧では神話と歴史は、それぞれ区別して記述されてきたが、日本ではそうではなかった。神話から歴史への移行が滑らかに行われている。九州の高千穂には、神話的な雰囲気が漂い、そのたぐい稀な景観が神話に現実味と具体性を与え、それを豊かにしている。神話時代と現代の感受性との間に、生きた連続性が保たれている。」と述べられています。
天皇陛下のご存在自体が、そして国民のお幸せを常に願ってご奉仕される宮中での祭祀を継承され、厳修されていることに、我が国の神話と歴史の連続性が最もよく表われています。それが我が国の歴史・文化、ひいては経済や我々の暮らしの根幹であると思います。
大宰府鎮護の神
天智天皇の御代、今から1350年もの昔、九州一円を統治する大宰府政庁が現在の都府楼跡の地に創建された時、鬼門に当たる竈門山(宝満山)で西の都大宰府鎮護のための祭祀が行われました。
山頂の巨岩の下から国家的な祭祀が行なわれていたことを示す奈良時代から平安時代初期の皇朝銭、奈良三彩などの数々の品が出土し、ある時は大宰府の平安や国家鎮護の祭祀が行われ、またある時は遣唐使の渡航安全や外敵からの守護が祈られていたのです。
玉依姫命と竈門神社創建
天武天皇2年(673)には、心蓮上人(しんれんしょうにん)がこの山に籠もって修業中に玉依姫命が現れ、朝廷によって上宮が建てられました。これが竈門神社の創建となります。爾来、大宰府官人のご崇敬は厚く、「延喜式」に明神大社(みょうじんたいしゃ)として記載されています。
伝教大師
最澄は瀬戸内海で暴風雨に遭い、難破した遣唐船の修理を待つ間、約一年間を筑紫で過ごし、延暦22年(803)この山に参籠して薬師仏4体を彫って竈門神社に入唐求法、航海の安全を祈りました。それ以後、高僧の往来が盛んで平安時代末から鎌倉時代には、麓の北谷・南谷・内山に学問を専らにした衆徒300坊、修業を専らにした行者70坊の坊舎があったと伝えられ、優れた宗教文化が華開いたのでした。
武将の信仰
室町時代の成立に大きな力となった武藤資頼(むとうすけより)を初代とする小弐(しょうに)氏は、元寇の際に宝満山麓に有智山城を築き、竈門神社に戦勝を祈願して、現地の最高指揮官として元軍にあたり大きな武勲をたてました。
戦国時代末期、「岩屋城の戦い」で有名な高橋紹運(たかはししょううん)も宝満山に城を築き、竈門神社を守り神としました。しかし、長く続いた戦乱は竈門神社・有智山寺を大きく疲弊させましたが、その後天正15年(1585)豊臣秀吉は宝満山に三層の高楼を建て、時に筑前国を領した小早川隆景は宝満山に登拝し、諸堂の再建に着工しました。江戸時代になると、黒田藩の歴代藩主の信仰も厚く、堂社・什器の寄進、修復を行い、次第に復興に向かったのです。
山伏
往年に比すべくもないものの、江戸時代には、25坊の山伏たちが山中に住み、峰入り修業をしたり、人々の除災招福を祈る加持祈祷を行いました。この頃には、良縁を願っての十六参りなど庶民の登拝が盛んになり、宝満山は修験道の霊山、信仰の山として人々の心に浸透して行きました。
しかし、明治時代になると国の神仏分離政策によって仏教的なものが全て廃され、山伏たちはこの山を去ったのです。
竈門神社は、初めは村社でしたが、ご祭神が神武天皇のご生母の「玉依姫」であり、九州総鎮守の由緒深き神社であったことから、明治28年(1895)に官幣小社に列せられました。
そして今
現在は、「縁結び・方除け・厄除けの神様」として、四季を通じて宝満山にご登拝する人々の心身修練の場として、さらに信仰の霊山として多くの人々に親しまれています。 

公式HP(旧)



竃門神社

結びの社
古来、「縁結び」、「方除け」、「厄除」の神様として信仰されている竈門神社。
 主祭神に玉依姫命(たまよりひめのみこと)をお祀りしていることから、魂(玉)と魂を引き寄せる・引き合わせる(依)という御神徳を慕われ、古くから「縁結びの神」として広く信仰されてきました。「縁結び」とは、男女の「良縁」をはじめ、家族、友人、仕事、自然などとの良いご縁を結んでいただける神様として広く親しまれています。
 また古くは、大宰府政庁の鬼門除けとして、また、大陸へ渡る人々がこれから進む航海(道)の安全と事業の成功を祈願したことから「方除け」、「厄除」の信仰も篤く、現代においても、新たな生活をはじめる方や、人生の節目を迎えた方々などが参拝に訪れ真摯な祈りが捧げられています。
 創建以来1350年を越える長い歴史を引き継ぎ、これから未来へより一層信仰の輪を広げ、多くの人々の神様として、親しまれていくことを願っています。
竈門神社の歴史
天智天皇の御代、九州一円を統治する大宰府政庁が置かれた際、鬼門にあたる竈門山(宝満山)では大宰府また国家鎮護のための祭祀がはじまりました。頂上の上宮が建つ巨岩の下からは和同開珎をはじめ皇朝十二銭や奈良三彩など、奈良時代から平安初期に国家的な祭祀が行われていたことを示す数々の出土品が確認されています。
天武天皇2年(673)、開山心蓮上人が山中で修行中、にわかに山谷震動して貴婦人が現れ、「われはこれ玉依姫の霊、現国を守り、民を鎮護せんために、この山中に居すること年久し。」などと告げ、金剛神に姿を変じ九頭の龍馬に駕して天を自在に飛行しました。心蓮上人は直ちに朝廷にその旨を奏上すると、朝廷の命によって上宮が建立されました。
宝満山が大宰府政庁と密接な関係にあったことから、最澄や空海をはじめ、遣隋使や遣唐使など大陸へ渡る人々が航海の安全と、目標達成のために登拝し、祈りを捧げた山として大切に守られてきました。
中世以降は修験者による信仰が盛んになり、険しくも秀麗な宝満山の姿に多くの山伏が憧れ、厳しい修練を重ね、世の平安と人々の除災招福のための加持祈祷が行われました。
江戸時代の博多の禅僧で著名な仙腰a尚も宝満山に魅了された一人で、頂上下の竈門岩の伝承に深く感銘し「仙竈」の文字を大書して「仙轟h書」の銘を刻みました。
竈門神社は、承和22年(803)に従五位上が授けられ、その後徐々に位階を進め、嘉承元年(1106)には正一位を贈られ、『延喜式』には名神大社にも列せられました。そして明治28年(1895)、竈門神社は官幣小社に列せられました。
現代においても、縁結び、方除け、厄除の神さまとして多くのご参拝をいただいているほか、桜や紅葉の名所としても親しまれています。歴史と文化が息づく太宰府の街に、人と人の心が通い合う祈りの山として、これからも大切に守り伝えられていくことでしょう。

公式HP(新)



竃門神社

かまどじんじや 福岡県筑紫郡大宰府町内山。旧官幣小社(現、別表神社)。延喜式内名神大社。太宰府史跡を中心にした太宰府県立自然公園背後の宝満山(869m)を上宮として、県内に広く存在する宝満信仰の中心であり「宝満さま」として親しまれている。祭神は玉依姫命を主殿として、相殿に神功皇后・応神天皇が祀られている。由緒によると、神武天皇東征に先立ち自ら宝満山に登られ、御胸鏡を榊木の枝に取り掛け、厳の太玉串を刺し立て、建国の大偉業を告げ申し、神々の御加護を祈請されたという。神武天皇の母君は海神として知られる玉依姫命で天皇の偉業はこの母君の御導きによることが大きいことより主祭神として祀られている。天智天皇の時、天智3年(664)大宰府設置の折、都府楼建設の際竈門山(宝満山)が鬼門に当たり、勅使をもって厳かに祭祀なされ、ついで天武天皇の白鳳2年(673)、この地の守護神として社殿を創設されたのを起源とする。仁明天皇承和7年(840)4月、勅使奉幣があり、陽成天皇元慶3年(879)6月8日には「従四位上」の贈位があり(三代実録)、『延喜式』には「筑前国、御笠郡、竈門神社(名神大社)」と記されている。白河天皇の御代には九州総鎮守の神と崇められ、堀川天皇嘉承元年(1106)にほ正一位を賜り、以後も歴代天皇をはじめ武将の崇敬も篤い。黒田氏が藩主として入国以来、たびたび社殿の改築等篤く尊崇されて来た。しかし、明治維新神仏分離の際、神仏混合が強かったせいか、全山の社殿仏舎は全部破焼され、残されたただ一つの社殿が村社として祀られていたが、明治28年(1895)10月官幣小社に列絡。例祭11月15日。特殊神事として十六参り。今日、縁結びの神としても崇敬をうけている。

神社辞典



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