筑紫神社
ちくしじんしゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】筑紫神社(名神大) 筑前国 御笠郡鎮座

   【現社名】筑紫神社
   【住所】福岡県筑紫野市原田2550
       北緯33度27分25秒、東経130度32分34秒
   【祭神】白日別神 五十猛命 (配祀)玉依姫命 坂上田村麿
   【例祭】10月20日 例祭 11月23日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創建不詳
       貞観元年(859)従四位下
       元慶3年(879)従四位上
       天元2年(979)太政官符に筑紫宮大宮司職の記載
       至徳年中(1384−87)社殿建立
       享徳2年(1453)造営
       寛文2年(1662)遣営
       延宝8年(1680)火災炎上
       天和元年(1681)造営
       正徳2年(1712)造営
       明治五年郷社
       明治14年9月27日再び郷社
       大正4年7月6日県社

   【関係氏族】筑紫氏
   【鎮座地】元は基山の頂上に会ったと伝
        その後現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「筑紫大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿・神門・宝藏・参籠所・社務所・手水舎

   【境内社】稲荷神社・厳島神社・高産霊神社・猿田彦神社・五所神社
        若宮神社・葉山神社・金刀比羅神社・宮地嶽神社


元来は、筑紫国の国魂、また『特選神名牒』に言う如くこの国の荒ぶる神を祀ったのであろう。
筑後国風土記に三つの地名由来がのっている。
 1.筑前筑後の間の山に嶮しく狭い箇所があり、往来の人は乗っていた鞍「革+薦」[シタクラ]を磨り尽くされた。民人はクラツクシの坂と呼んだ。
 2.この堺の上に麁猛神がいて、往来の人、半ば生き、半ば死んだと言う。その数いたく多かったという。よって、人の命尽しの神と言った。時に、筑紫君と肥君が占い、筑紫君の祖甕依姫を祝として祭らせた。それより以降は神に害はれなかったと言う。これを以て筑紫の神と言う。
 3.その死んだ者を葬るために、木を切って棺輿を造ったので、山の木尽きてしまった。よって筑紫の国と言う。


由緒

国号起源由緒略記
御祭神は白日別命にて後世玉依姫命坂上田村麿の神霊を相殿に奉祀す当社は延喜式神名帳に名神大の神格を定められ神代の神様に座して往古九州を筑紫と云ふ称は白日別命の神号より起り筑紫(筑前筑後)の国魂にして朝廷より当社を尊崇せらるゝ事は古書に判然せり三代実録と云ふ同書の弐巻に清和天皇貞観元年正月27日筑前国従五位下筑紫神従四位下を授く同書30巻に陽成天皇元慶3年6月8日筑前国従四位下筑紫神従四位上を授くと見え又類聚符天元2年2月14日の官符に当国住吉香椎筑紫竃門筥崎等の宮皆大宮司を以て其の貫首となすとあり此社は初城山の頂に在りし崇励ありしにて麓に移と云ふ昔は神田等多く其名称の字に遺りしもの原田筑紫に在す又武人の崇敬最も厚く筑前藩主黒田家より神殿の改築等なせり大正4年7月6日郷社より県社に昇格せらる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




筑紫神社

まほろばの碑
遙かな古代
筑前、筑後を合せて「筑紫の国」と名づけ
九州を「筑紫の島」とさえ称した。
ああ、かくも大いなる筑紫。
ここはその発祥地であり中心地である。
ここ筑紫のまほろばに鎮まる産土の神は
われわれの遠い祖先の喜びであり
現代のわれわれの誇りであり
われわれの子孫が受けつぐべき聖域である。
安西 均

社頭石碑



筑紫神社

祭神を筑紫の神といい、筑紫の国魂である。奈良時代の「筑後国風土記」の神話によると、『筑前と筑後の境となる山に荒ぶる神がいて、峠を往きかう人を多く取り殺していた。その神は人の命尽(イノチツクス)の神と呼ばれた。後にこの神を祀って筑紫の神と呼ぶようになった』とされ奈良時代以前から当社は在ったと推測される。筑紫の語源は当社の神号から起こった。筑紫の神が白日別神・五十猛命という説もあるが断定はできていない。後世に玉依姫命(竈門神社より勧請)、坂上田村麿を祭祀した。
当社は延喜式神名帳(927)に名神大とあり、朝廷より尊崇されていた。日本三大実録によると『貞観元年(859)に筑紫神社従四位下を奉授され、元慶3年(879)に筑紫神社従四位上を授く』とある。類聚符宣抄に天元2年(979)の官符に『住吉・香椎・筑紫・竈門・筥崎等の宮は大宮司を以て、その貫首となす』とある。
鎌倉時代から筑紫村の地頭職であった筑紫氏が社司を兼ねていた。その後、享徳2年(1453)社殿が造営された。(それ以前にも社殿はあったと推測されるが、記録としては残っていない)筑紫氏は応仁・文明の頃より筑紫村を去り勝尾城(鳥栖市)に移居し武威を振るっていたが、島津勢により落城した。神領は没収、神宝や古文書類も兵火にかかり当社は荒廃した。寛文2年(1662)に荒廃した社殿を再建、延宝8年(1680)火災で焼失したが再興した。古い石の鳥居は元禄2年(1699)に建てられた。拝殿の「筑紫宮」の額も同年に寄贈された。現在の本殿は貝原益軒の愁訴により正徳2年(1712)に黒田藩主から資材を賜り再建されたものだ。明治維新の近代社格制度により、明治5年(1872)に郷社に定められた。明治44年(1911)に上原田の若宮神社が飛地神幸所境内地として編入された。大正4年(1916)には県社に昇格した。昭和9年(1934)には拝殿が造営され、昭和63年(1988)には筑紫神社幣殿を中心とした改築、五所神社、若宮神社の建て替え、金刀比羅社の改築が行われた。
附記
粥占祭は、当社に古くから伝わる伝統神事であり、2月15日に炊いた粥を鉢(文化2年造)に盛って神前に納め、3月15日に粥面に生えたカビの色合いと毛草によりその年の作物および風水病害の判断をするものである。筑紫野市無形民俗文化財に認定されている。
平成16年12月吉日 奉納筑紫神社崇敬会

社頭掲示板



筑紫神社

創立年代詳ならねど、三代實録に、清和天皇貞観元年正月從四位下を授られ、陽成天皇元慶3年3月從四位上に進られ、又醍醐天皇延喜の制名神大社に列せらる、當社はもと城山の頂上にありしを、後に山麓に移転せしといふ、一説として筑後風土記に「筑後の國は、元筑前と合せて國たり、此界の上には庶の猛神ありて、往來の人なやまされて半は死す、人名付けて人名盡の神と云ふ、時に筑紫君、肥君等これを占ひ、今筑紫君等の祖甕依姫を祝として是を祭らしむ、爾來人命の害をまぬかると云ふ、即ちその筑紫神と云ふ神なり」と見えたり而して往古は神田等多くを有し、盛んなりし由なれども、今は只池田、土田、朱田、梁田、宮司田、猿樂田等の名称を存する而巳、天正14年筑紫上野介暴慢にして、遂に応門の乱等を引き起せし爲め、神領をも喪ひ、神宝古文書類も兵火に罹れり、後寛文2壬寅年、神殿を再営し、正徳2年藩主黒田氏、拝殿、廊下、楼門を築き、且つ社領三十五石を寄せしが、明治維新の際、神社の改革に依りて廃せられたりといふ、享徳2年筑紫能登守経門、同左近將監俊門等此社を造営せる由棟札に見え、近頃に至つて其破壊したるを、天和の初村民等御社を再興せりと云ふ、一は寛文年度に近く、一は正徳年度に近し、果して何れを正とすべきか、記して以て後考を侯つ、神職は左承抄太政官符に「(上略)右得神祇官貞元3年8月5日解云々、於當國住吉、香椎、筑紫、竈門、箱崎等宮皆以大宮司爲其所之貫首」と見え、続風土記に「筑紫氏則當社の神司として、始は社のほとりに居れり(筑紫に宅跡あり)後に兵革をわざとして、天正の頃武威を近隣にふるひし、筑紫上野助は、即ち此社司の後裔なり」とあり、明治5年村社に列し、同14年9月郷社に昇す格。
社殿は本殿、渡殿、拝殿、宝蔵等を備へ、境内5076坪(官有地第一種)を有す、又績風土記に「相伝ふ、社に向つて坂の下に、御池かた計り残れり、その西の方に神井あり、清水を出す、又石の鳥居は元禄14年の春建立せしものにして、額は貝原翁の乞によりて、花山ノ内府定誠公書給へり」とあり。

明治神社誌料



筑紫神社

筑紫神社 ちくしじんじや 福岡県筑紮野市原田。旧県社。祭神は白日別神・五十猛尊。
『三代実録』に貞観元年「従四位上」、元慶3年「従四位上」の神階昇格をうけたことがみえる。『廷喜式』には「名神大」とあり、古くよりこの地「筑紫」の名なを冠する古社。初めは城山の頂上にあったが崇敬篤く麓に遷座。たびたび兵火にかかったが歴代領主の寄進、造営あり。神殿は寛文2年(1662)、拝殿・神門ば正徳2年(1712)の造営という。大正4年(1915)県社に列格。
特殊神事に粥ト祭がある。例祭10月20日。

神社辞典



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