志登神社
しとじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】志登神社 筑前国 怡土郡鎮座

   【現社名】志登神社
   【住所】福岡県前原市志登 82
       北緯33度34分27秒、東経130度13分19秒
   【祭神】豊玉姫命 (配祀)和多津見神 息長帶姫命 彦火火出見尊 武内宿禰命
   【例祭】10月6日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創建年代は不明

       花山天皇の時大藏種美大宮司と称        弘安9年(1286)関東下知状に記載
       元亀・天正年間の兵乱によつて廃絶
       天正9年(1581)原田隆種再建
       元禄3年(1690)福岡藩前藩主黒田光之建立
       享保2年(1717)黒田宜政建立
       明治5年11月郷社
       大正4年11月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「志登大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・社務所・御炊所

   【境内社】嚴島神社・志々岐神社・三社神社

彌生時代には既にこの地が聖域化していたと思われる。
古くは、博多湾と唐津湾からの入江が、恰土と志摩の二郡を南北に分けるように割りこみ、この志登神社をはさむようにせまっていたらしいが、江戸時代の干拓で現在は水田の中央になっている。
神社の社殿は、唐津湾の方向に西面して建てられ、入江であったころは、海上から参拝するようになっていたらしい。口碑によるとこの社地は、ヒコホホデミノミコト(山幸彦)が海神国ヘ行って先に帰ってきたのを、その妃豊玉姫があとを追ってここに上陸した霊地として、豊玉姫を祭っているのだといっている。
昭和28年、近在に残存する支石墓群(ドルメン)の発掘調査が行はれた。その結果、満鮮地方から北部九州に特徴的にみられる支石墓のうち、この志登支石墓群は彌生時代の前期から中期にかけて、当時の海岸域に築造されたものであることが随伴する甕棺等の調査によつて明らかとなつた)。『埋藏文化財発掘調査報告志登支石墓群』文化財保護委員會昭和31年刊)。


志登神社

志登神社
延喜式内社
弥生時代は、この周辺は、入江が古東西から劇リ込み、伊都国の港を形成していた。
祭神は日本神話によれば海神国よリ帰って、この地に上陸されたという日向二代の妃「豊玉妃」であリ、社殿は西方に向って建ち、昔は海上から参拝するようになっていた。
附近の遣跡
志登支石墓群(弥生前期の南鮮式巨石墳)(国指史遺跡)
岩鏡(支石墓)(弥生南鮮式巨石填)(豊王姫にまっわる伝説)

社頭掲示板



志登神社

志登神社  (延喜式内社)
御祭神 豊玉姫命
相殿  和多津見神 彦火火出見尊
     息長帯姫命 武内宿祢命
祭典
・元旦祭      1月1日   ・祈稔祭     4月7日
・千度汐井     7月中旬   ・例大祭(神事)10月6日
・新穀物感謝祭  12月3日
由来
 志登神社は延喜式神名帳(西暦905年醍醐天皇の時代)に記載せられた式内社で筑前十九社の一社に列せられた由緒ある古社である。
 この事は延喜年間にこの地方に於ける最も有力な神社として中央にも認められ、又、志摩郡の総社として郡民一体の崇敬を集めていた。

社頭石碑



志登神社

大石大神
    細語ささやき橋の由来
神池に架せられていたが膝行の人が此の橋の上で足が立ったと云う伝説があることから神池の入り口に立て、萬病平癒を願い祭られています。

社頭石碑



志登神社

幣帛料供進指定社。大字志登字宮廻にあり。(古名浮島)祭神豊玉姫命和多津見命息長帯姫命彦火々出見尊竹内宿禰命。延喜式には筑前國怡土郡志登神社一座とあり。古は此の村怡土郡に属せり古は志摩郡の総社にして郡中の貴賤皆産神と仰ぎ祭れり。祭日には神輿潤村合の森と云う所まで渡御あり,宮司七人巫女八人神人二十四人楽人八人此外祠官多く供奉して其の儀荘重なりしといふ。神田も多かりき。古文書に曰く可令早託摩別當次郎時秀法師(法名)領地筑前國志登神社地頭職豊前前司景資跡事右依弘安四年蒙古合戦之忠,所被宛行也。然者早守先例,所令領掌之状,依仰下知知件。弘安九年十月二十八日相模守平朝臣判陸奥守平朝臣判。又曰く筑前國志摩郡志登神社地頭職事,早莅被所下地於沙汰付,託摩別當可執進請取之状如件。應永九年七月二十九日,貞頼ョ判。榊掃部入道殿。新原又三郎殿。又一書に,託間別當五郎本領志登地頭職之事などあり。延慶四年の文書に,志土社神官寺別當職免田など見ゆ。共に同地中村家に蔵す。元亀天正の頃までは猶十二町あり。弘安四年辛巳の蒙古合戦の功により同九年丙戊鎌倉より肥前國託摩別當次郎時秀と云人を此の社の地頭職とせしことあり。(前記の古文書参照)古代神領の多かりしを推すべきなり。花山天皇の御代に岩隈式部大藏種美といふ人あり。當社の神託によりて始めて大宮司と稱す。其の子を越中といふ大宮司の家を嗣ぎて,次男■(さんずいに蒼)永といふ僧始めて宮司坊となる。此の外神官巫女數多ありしが豊臣秀吉九國征伐の時神領悉く没収せられしかば神官社僧も皆農夫となれり。此の時の神職岩隈與左右衞門其の所有田畑の内一町を兄の宮司坊祐尊に與へて宮司職を繼がしめ,其の身は遂に農夫となれり。神田は原田隆種天正九年辛巳十一月に再建せしを元禄三年庚子國主黒田光之神殿を初め末社に至るまで改築し,太郎丸の内にて神田壹町六段寄附あり。明治5年11月郷社となり,大正4年11月10日縣社に列せらる。大正5年12月12日幣帛供進社に指令せらる。もと9月7日を例祭とせしが大正6年4月例祭を10月7日に變更せり。昔此社地は浮島なりしといふ。
豊玉姫は海神の女にして現官幣小社竈門神社祭神玉依姫命にあらせられ地神四代彦火々出見命の后妃にて五代鵜草葺不合命の御母君なり。初め彦火々出見命兄火照命の釣針を借りて釣魚をなさんとして海中に之を失ひ釣針を索むるため塩土老翁の先導に依りて龍宮に至り,豊玉姫姙娠の身を以て彦火々出見命の跡を慕い此の地に来たり給ひし靈地なれば豊玉姫命を奉祀せしものなりと云ふ。尚ほ尊の立たせ給ひて髪を梳りしと云ふ大岩を岩鏡と云ふ。其他鐘掛の松物語橋等社地の附近にあり。又彦火々出見命は同郡高祖神社の祭神にして,東導の神なる塩土翁は同郡芥屋村に鹽土神社として奉祀せりと。
境内神社三殿島神社(祭神市杵島姫神),三社神社(祭神皇大神,八坂神,天滿神),志々岐神社(祭神十域別神,倉稲魂神)。

糸島郡誌



志登神社

創建年月詳ならす、然れども延喜式神名帳に、恰土郡一座に志登神社とあるは即ち当社の事なり、筑前績風土記、和漢三才図絵、和爾雅、社傅等孰れも當社を以て式内社たる由を証せり、社記に「往古祭礼には神輿潤村に還幸あり、宮司七人、巫女八人、神樂人八人、此外社官多供奉」とあり、以て盛大なるを知るに足る、続風土紀社記等を見るに、元亀天正の頃猶神田十二町を有せしが、其後領主小早川秀秋の時、神田を没せられ、末社も亦貧廃し、其遺跡田畠と成る、神官の家も悉く断絶して僅かに真言宗にて照光寺と号する社僧一家を存するのみ、元禄3年に至り、国主黒田忠之神田三十石の寄附あり、同年神殿及末社鳥居等の造営ありて、神事も古礼に復したりといふ、筑前旧志略に青柳翁の説に弘安4年蒙古合戦の功により、肥後国託摩別當次郎時秀と云人をして、志登神社の地頭職たらしめし、其文書今尚肥後國託摩郡の農家にあり、又花山天皇の御宇岩隈式部大藏種美と云ふ人あり、当社々記によれば始めて大宮司と称す云々と見え、又天正15年秀吉公西征の時、神領悉く没収せられ、元禄年間黒田氏より、神田一町六反を寄附せられ、維新の初め旧藩主長知神領を増加して頗る尊崇せりと云ふ、以上に依り其の沿革の概略を推知すべし、明治5年11月郷社に列す。
現今社殿は、本殿、幣殿、拝殿を備へ、境内1535坪(官有地第一種)、村の北方田圃の間に在り、四囲樹林ありて社前亦泉水の設あり。

明治神社誌料



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