現人神社
あらひとじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】住吉神社3座(並名神大) 筑前国 那珂郡鎮座

   【現社名】現人神社
   【住所】福岡県筑紫郡那珂川町仲434
       北緯33度30分23秒,東経130度25分29秒
   【祭神】表筒男神 中筒男神 底筒男神 神功皇后 安徳天皇
   【例祭】10月第1日曜日 注連繩打祭
   【社格】
   【由緒】

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 現人神社
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

当社は、住吉神社の発祥の地とされ、住吉三神を祭祀した最も古い社であるとしている。摂津の住吉大社は現人大明神の和魂を祀り福岡の住吉宮は当社より分霊されたという。


由緒

記紀神代巻によります伊邪那岐命の禊祓の際生れ給う底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神、次に天照大神・月讀命・須佐男命の御出現の次第が記されています。当宮は、其の筒男三神(住吉三神)を主神として祭祀するお社であります。仲哀天皇の御代(1800年前)神功皇后の大陸遠征の際、当時玄界灘を渡海すること事態多くの犠牲を共なう最も難業の時代であったと思われます。その苦難する皇軍の軍船の舳先に御代を現し玄海の逆巻く波風を鎮め、玉体を護り進路を導き無事凱旋せしめた神。すなわち現人神の御鎮座の地を皇后自から神告にてお知りになりいたく畏み奉られ、武内宿禰をして当地に遺し当宮の水田に水を引き、五穀豊穣の誠を捧げられ、現人明神の尊号を授けられます(現人神社の名称の起原)以后、供奉の藤原朝臣佐伯の宿禰をして祠官せしめられ、又村人等も皇后のご功績を大いに喜び秋の収穫の祭には、近郷の村々より腕に自満の若者が多数打ち集い神前にて奉納相撲を行ったことに始まり、秋祭には、今に続く伝統行事です。又鎌倉期には、武勇長級を祈し、勇壮な流鏑馬も奉納されるようになり戦国期を除き今に守り継がれる当社の二大伝統行事であります。皇后大陸遠征より大和への御帰還に際し霊験な現人神の和魂をご奉持され摂津(大阪)に着かれ、皇后は其の地を眞住吉之国(住よい国)と仰せられ、その地摂津に和魂を祭祀されてより筒男三神たる現人神を住吉三神と称される様になります。福岡の住吉宮も後に現人宮より御分霊され筑前一ノ宮となります。住吉神は全国津々浦々に二千余社を数えますが、即ち現人神社は其の住吉三神の本津宮にあたります。明治5年太政官布告による現在の現人神社と改称になります。現人神社は、神功皇后より尊号を賜ってより天地共に鎮めの祖神と仰がれ、風雨を治め大地を鎮め護る神として今に地鎮祭等を始め厄祓・災難除等の祖神として広く崇敬を集めております。現人神社は、岩戸郷23ヶ村(今の那珂川町)の総社として寿永年間より太宰小式原田種資が岩戸河内に館を設けた頃より氏神と仰ぎ神領・神田等多くの寄進があり祭礼も原田家より執り行い社人も30余名を数え、筑前守太宰小式種直が安徳天皇を領地に(安徳台)迎え奉り仮御所を建てた頃は当宮も専ら繁栄し官幣も捧げられ地方に於ける大社でありました。しかし天正15年(戦国時代)高橋紹運がこの地を領せし頃、島津軍との乱世の為当宮も戦火を蒙り社殿神宝古文書・縁起に至まで悉く焼失し、社人30余名も戦乱に命を落し神領も没せられ、境内も数十分の一に狭められ、社主佐伯刑部の一子松千代(当時7才)なる者一人生き残り後に祠官を継ぎ今に至ります。元緑年間黒田負重実が当地を統轄してより藩主のもと村人等が復興を計り正徳4年今の神殿等が再建され、天明7年黒田斎昭の参詣を受け、石灯篭一対の寄進等があり、黒田斎清が絵馬等を奉納、天地鎮護と五穀豊穣の祈祷が盛大に行われ、今に地鎮の祖神として広く崇敬を集めております。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




現人神社

当宮の主祭神である底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神は、記紀神話によると伊邪那岐命が黄泉の国で受けた穢れを祓うため禊をおこなった時誕生した神とされています。これら三神は、三貴神(天照大御神・月読命・須佐之男命)に先立って生まれた神であり「祓の神」という大切な神格を持っています。また仲哀天皇の御世(約1800年前)神功皇后が大陸遠征されたとき、この三神が荒れ狂う海原で苦難する皇軍の船の舳先に姿を現し、禊の神として皇后の身を護り玄界の逆巻く波風を鎮め、船の水先案内をも務めたと伝えられています。このことが、当宮が国家守護の神・天地共に鎮めの祖神として信仰されるに至った由縁です。大陸遠征から無事帰還した神功皇后は神恩に感謝し、神さまが現世に姿を現したことから「現人神」と称し、その鎮座の地に竹内宿禰を遣わし、神田に水を引き五穀豊穣を祈請して、現人大明神の尊号を授けられました(現人神社名称の起源)
また、霊験あらたかな現人神の和魂は、皇后大和への帰還の際、眞住吉之国(住みよい国)と仰がれた摂津(大阪)の地にお祀りされたことにより、筒男の三神たる現人神は、住吉三神とも称されるようになりました。福岡の住吉宮も後に当宮より御分霊され、筑前一宮となりました。住吉三神をお祀りする神社は、全国津々浦々に二千余社を数えますが、現人神社は、その住吉三神の本津宮にあたります。
現人大明神の尊号を授けられた後、藤原朝臣佐伯宿禰が、祀官を務めるようになり、寿永年間太宰少弐原田種資が岩戸河内に館を設けた頃より、当宮は岩戸郷二十三カ村(那珂川町)の総社として仰ぎ奉られました。神領・神田等多くの寄進があり、祭祀は原田家が執り行い、社人も三十余名いたといわれています。この頃は、官幣も捧げられる程繁栄していました。しかしながら、天正十四年(戦国時代)高橋紹運が、この地を治めていた頃、島津軍との戦乱のため当宮も戦火を蒙り、社殿・神宝・古文書・縁起に至るまで悉く焼失し、社人三十余名も戦乱に命を落としました。佐伯刑部の一子松千代(当時七歳)一人生き残り、後に祀官を継ぎ今に至ります。
元禄年間、黒田靭負重実が当地を統轄してより、藩主のもと村人等が復興を図り、正徳四年現在の神殿が再建され、天明七年黒田斎昭の参詣を受け、石灯籠一対の寄進等があり、黒田斎清が絵馬等を奉納。天地鎮護や五穀豊穣の祈祷が盛んに行われました。 明治五年太政官布告により、現在の現人神社に改称。当宮は、神功皇后より尊号を賜ってより、天地共に鎮めの祖神と仰がれ、風雨を治め大地を鎮め護る神として、今に地鎮祭等をはじめ厄祓・災難消除等の祖神として、広く崇敬を集めています。

公式HP



現人神社

創建年月詳ならすと雖も、社記及び筑前続風土記、同拾遺、筑前旧志略等を参酌するに、當社は即ち住吉大神の始めて出顕し給へる橘の小門にして、社は住吉の神の最初の社なるべし、社号を住吉神社といはすして、現人神社と称するは、誠に所以ある事にて、住吉神が神功皇后に「吾居於日向橘小戸而水葉稚出居神」と訓え給ひ、やがて御形をあらはして御軍の船を導き給ひしより、現人神と称へ奉る事なるが、後今の住吉村に遷されても、尚現人大明神と称したり、社家に伝ふる文明年間の古文書にも、住吉本社と見えたり、楮小戸の棍の原は住吉の邊也と決定すべしとて、日本紀私記、釈日本紀等の諸書を引きて、貝原翁の説あれど、神代には今日住吉の辺は海底なりしかとおもはるれば、日本紀私記、釈日本紀等に「住吉本社筑前小戸に在り」といへるは、即ち現人神社を指していひたるなるべしとなり、事固より往古に属し、今遽かに断定し難しといへども、暫らく記して後考に備ふ、もと岩戸河内十二ケ村(仲村、東隈、西隈。道善、後野、谷口、片縄、松木、五郎丸、中原、今光、下梶原)の惣鎮守たり、祭礼も昔は年中繁多にて、流鏑馬及び角力等もあり、祭儀頗る盛大を極めしと云へど、今は些か形ばかり残れり、康暦2年より応永2年迄の相撲、流鏑馬興行の事、神事帳に委しく見えたり、又昔は神幸有りし由、御旅所の森、浮殿の跡、今に残れりといふ、(筑前続風土記同拾遺に拠る)、因にいふ、当社の神職と、住古村住吉神社の神職とは同系にして、共に佐伯氏なり、神功皇后の定め給ひし社職の裔なりといひ伝へたり、尚山田の一の堰及裂田の溝等、昔を懐はしむる地名を附近に存せり、明治5年11月郷社に列す。
社殿は本殿、渡殿、拝殿を備へ、境内は447坪(官有地第一種)を有す。

明治神社誌料



現人神社

伊邪那岐の大神筑紫の日向の橘の小戸の檍腹にて禊祓ひ給ひしと記に生れましし住吉三柱の大神を祭祀した最も古い社にして神功皇后(1780年前)三韓遠征の際軍船の舳先に御形を現し玉体を護り進路を導き無事凱旋せしめた御神として皇后いたく畏み奉りてこの住吉の神の鎮り座す現人宮を訪れ神田に水を引かむと山田の一の井堰を築き裂田の溝を通湍して五穀豊穣の誠を捧げられ現人大明神の尊号を授けられ供奉の藤原朝臣佐伯宿祢をして祀官せしめられてより現人大明神と称す。摂津の住吉大社は現人大明神の和魂を祀り福岡の住吉宮は(1200年前)分霊せらる。
今の神殿拝殿大鳥居は正徳4年(約270年前)当時の領主地頭であった黒田靭負重実が氏子に協力して再建したものである。
明治5年太政官布告にて現人神社と改号され五穀豊穣を始め交通安全厄除開運家内安全商売繁盛初宮七五三等今に篤い崇敬を受けている。

社頭掲示板




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