住吉神社(若久住吉神社)
すみよしじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】住吉神社3座(並名神大) 筑前国 那珂郡鎮座

   【現社名】住吉神社(若久住吉神社)
   【住所】福岡県福岡市南区若久1−20−14
       北緯33度33分17秒,東経130度24分48秒
   【祭神】底筒男命 中筒男命 表筒男命 (配祀)天照皇大神 神功皇后 (合祀)菅原道眞
   【例祭】10月16日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 若久住吉神社
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

当社を住吉神社3座(並名神大)に比定する説がある。


由緒

住吉三神は、遠い神代の昔に、伊弉諾大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原でミソギハラヘ(禊祓)をされたときに、志賀海神社の御祭神、ワタツミ三神と警固神社の御祭神・直毘の神と共に御出現になりました。したがって、当社の御鎮座は、遠い遠い神代のことで年代を定めることは出来ませんが、全国的にも九州でも最も古いお宮様の一つです。別称、住吉大明神とも呼ばれていますが、それは年代も古く、由緒も正しく、崇敬の顕著な神として選ばれた延喜式の明神祭にあずかる社格として認められたものと思われます。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




若久住吉神社

● 御 祭 神
 当若久住吉神社は底筒男神、中筒男神、表筒男神の住吉三神を祭神とし、相殿に神功皇后 菅原神社(菅原道真)を合祀します。blue ● 御 由 緒
 住吉三神は遠い神代の昔に、伊弉諾大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原でミソギハラヘ(禊祓)をされた時に、志賀神社の御祭神、ワタツミ三神と警固神社の御祭神・直毘の神と共に御出現になりました。したがって当社の御鎮座は遠い遠い神代のことで、年代を定めることは出来ませんが、全国的にも九州でも最も古いお宮様の一つです。
祭神菅原神は大字若久字天神に無格社天神社として祭祀してありましたが、大正13年10月14日許可を受け、明細帳編入と同時に合祀されました。
● 社 殿
約1800年前、第14代目仲哀天皇の皇后となられた神功皇后が熊襲叛するに及び、天皇とともに西征途中、天皇が香椎で崩御のあと新羅を征して凱旋され、誉田別皇子(後の応神天皇)を筑紫で出産されましたが、新羅から帰国されたとき、ここに立ち寄られ、ここに神社を建てようとされたということに起源しております。
一説には、約380年前に、この附近のお金持ちの人たちがこの地をならして当時の国主、黒田長政によって、住吉三神と神功皇后、天神様となった菅原道真公のご神徳を奉賽して造営されたものと伝えられています。
その後老朽化したため、現在の社殿は昭和39年、地元の金子市作、大野惣次郎、国武英太氏らの篤志家によって改築されたものであります。
● 境 内 平 地
境内平地には天保6年4月の鳥居、つづいて注縄掛石に左に(神光長明)右に(松寿千古)とあり昇格記念として大正15年10月の建立と刻まれています。
● こまいぬ(狛犬)
社殿の前に据え置かれた一対の獅子に似た狛犬の像は昭和60年3年10月、地元の三浦久・三浦千代子ご夫妻同じく三浦郁夫・三浦美春ご夫妻のご寄進によるものであります。
● 神 殿
神殿後方には若久公民館があり、なげしには明治、大正の絵馬が四枚掲げられています。
● 境 内 地
総面積約二千坪で周囲は竹林と鬱蒼とした樹木に圍まれ神々とした神域を醸しています。
社殿の正面左手には、黒田長政公の植樹と伝えられる山桃の木が亭亭とそびえ、御祭神の禊祓に房わしい御神木 として大切に保存されています。
● 神 事
 毎年恒例として
   1月1日
   5月3日
   10月16日
いづれも午前11時から禊祓の神事のあと直会が行われます。

社頭掲示板



若久住吉神社

当住吉神社の由緒は、定かでは、ないが、筑前國続風土記の若久村、当社の項では、「産神なり。いにしへ当村は、住吉社の神領のよし本社の古證文に在。故にここにも祠れるなり。本編に此社の南の原上に廣平の地ありと見えたるは即社の南に續ける丘なり。廣さ五反許あり。今松樹茂りし、宮山の内なり。供日田とあり。むかしの祭料か。」とある。
ここにある住吉社とは、《筑前国の一宮》博多区住吉の住吉神社であり、本社の古證文にあるとは、建武3年(西暦1336)三月八日源朝臣よりの寄進状に若久村三町が住吉社の神領であることが記されている。この時期は、南北朝時代であり、当社創建は、これ以降で、続風土記の記された江戸期には、神社が創建されていたことから、その間の創建であるが、戦国期の創建は、困難とおもわれる故、江戸期前期頃の創建か。
当社の主祭神 住吉大神(底筒男命・中筒男命・上筒男命)は、記紀によると神代の昔、伊弉諾大神が、妻の伊邪那美大神を慕って、黄泉の国の穢れに触れ、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原にて禊祓いされし時に、綿津見大神や禍津日神等と共に成りませる神たちで、こののち天照大御神、月読命、須佐之男命が、現れられるが、これら三貴神に先んじて現われし神々です。この禊祓いをされし、小戸の阿波岐原こそ、諸説はありますが、現在の福岡市中心部と思われます。
背景として、現在の福岡市中心部は、古くは、博多湾が入り組んでおり神代の昔は、かなりの部分は、博多湾の中(那の津)と推測されます。福岡市の南区には、三宅の地名があるが、古くは、海岸線で、海外接渉の為に宮家が置かれたところといわれており、他にも塩原、草ヶ江、美野島(簑島)や、荒津の岬からの長い浜で長浜などの地名も海岸を示す地名であり。住吉神社所蔵の「博多古図」では、鎌倉期以前は、福岡市の中心部は、かなりの部分が海中であり、蓑の形をした簑島は、島であったことがわかる。
この一帯に上記の住吉大神を祀る住吉神社、綿津美大神を祀る志賀海神社、禍津日神を祀る警固神社等あり、当社も所縁あり、この地に鎮座させたと思われる。

公式HP




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