神亀3年(726年)に創建された。社伝によればこの神社がある場所は神功皇后が三韓征伐の帰途、一時逗留した地であるという。 『筥崎宮縁起』によれば、平安時代の延喜21年(921年)箱崎浜(現福岡市東区箱崎)への遷座の託宣があって、延長元年(923年)に遷座したのが筥崎宮の始まりである。 創建当時の社殿は現在地より後方の丘陵上にあったが、戦国時代に戦乱のため焼失。天正5年(1577年)に秋月種実が現在地に再建した。 |
由緒 當宮は、神功皇后御征韓後粕屋の宇美邑にて應神天皇御出産遊ばされ、翌年の春、京にお上りの際軍隊を引率され粕屋、嘉穂の郡境にある険しい山「しょうけ越え」を経られ、當宮に至り坐して暫しお止りになり筑紫の行政をお執り遊ばされ、此地にて軍隊を解隊せられし由縁の地なり。 宇佐宮託宣集に我宇佐宮より穂浪郡大分宮は我本宮なりとあり。本邦五所別宮第一に列せられ朝廷の尊崇篤く、筥崎宮の元宮として由緒正しく、第45代聖武天皇神亀3年(今より約1300年前)御神託によって創建せられ、応仁天正の九州動乱にて御社殿は兵火に罹り焼失し後天正5年秋月種実公勅命に依り現在地に假殿を建立、御神霊を勧請鎮座せられたる御社殿がその侭今日に至る。 神殿裏山の小高い丘状の盛土は、全国でも珍しい皇室古墳埋蔵推定地「仲哀天皇御陵」として考古学者の学問的期待をかけている聖地であり、往古旧社殿は小高い丘の前にありて跡地に礎石のみ残れり。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大分八幡宮 神亀3年(726)の創建と伝えられる大分八幡宮は、神功皇后の所縁の地で、筥崎宮の元宮とされています。御祭神は応神天皇(八幡大神)、神功皇后、玉依姫命です。 神功皇后は、三韓征伐から帰国した後、粕屋の宇美邑にて応神天皇を御出産遊ばされ、その翌年の春、粕屋と嘉穂の郡境にある大口嶽(大口嶽の乳呑坂)を越えて当地に至ります。神功皇后は、当地にて引率していた軍士を解隊し、それぞれの故郷に返します。その大分から大分と称されるようになったと伝えられています。 御祭神である応神天皇(八幡大神)の神霊は、欽明天皇32年(571)に豊前国宇佐郡に所在する馬城嶽(御許山)に出現したと伝えられ、神亀2年(725)に現在の宇佐神宮の鎮座地である小倉山社へ遷座します。その翌年の神亀3年(726)、御神託により豊前地方と穂波地方、太宰府を行き来する拠点であり、大分の由緒ある当地に鎮西第一といわれる壮麗な社殿、穂浪宮(大分宮)が造営されたのが大分八幡宮の創始とされています。 宇佐宮御託宣集の延喜21年(802)6月1日の件にて『我宇佐宮より穂浪の大分宮は本宮也』と記され、箱崎の松原への遷座の神託があり、3年後の延長元年(923)に遷御したことから筥崎宮の元宮とされています。その遷座の前からの御神体で、神功皇后が腰裳に挟んでいたとされる「くしみ玉」は、大分八幡宮にて奉斎されていたとされています。 『宇佐宮御託宣集』 「延喜二十一年六月一日、筥崎神託す。 我が宇佐宮よりは、穂浪大分宮は我の本宮なり。去る二十日辰時を以て、来り着く。今日巳時を以て、爰に来る所なり。其の故は、香椎宮は我が母堂、住吉宮は我が親父なり。我が幼少の当初、志賀嶋を点住して、これに跡づく所なり。夷類を征伐せしむる後、吾出生の時、号を崇めらるべし。我が先の世に、三箇所に居住せしむべき由、所々に有りと雖も、先の世に天下国土を鎮護し始めし時に、戒定恵の筥を納め置く。埋むる所は、彼の父母両所の敷地の中間に、松一本を殖うる、巳に其の璽なり。適生土の上へ、彼の所に居住せしめんと欲ふなりてへり。 私に云く。大分宮は我が本宮とは、欽明天皇の御代、御示現の前、御霊行の時なり。」 代々朝廷の御崇敬も篤く、神事祭礼の折には太宰府庄庁の官人が参詣して執り行われ、承平5年(935)の「天慶の乱」の際には、朱雀天皇の勅願により平将門、藤原純友らの追討祈願のため九州に宇佐八幡五所別宮(第二肥前千栗宮・第三肥後藤崎宮・第四薩摩新田宮・第五大隅正八幡宮)が造立されますが、大分八幡宮は、その第一とされました。 中世も朝廷からの崇敬厚く、焼亡を受けての治暦3年(1071)の再建では筥崎宮と同等の規模の本殿であった記録されています。応仁の乱以降、衰微しますが、天正5年(1577)に秋月種実によって再建。この再建の時、現社殿の後方、丘の頂上の嶽宮から現在地に遷座しました。しかし、秋月種実が日向へ移封されたことで神領を失い再び衰微。江戸期に入り、福岡藩の関与と共に鳥居などの寄進も相次ぎ、享保6年(1721)8月15日には途絶えていた放生会も復活。享保8年(1723)には流鏑馬、その翌年の享保9年(1724)には村人が石清水八幡宮で習得してきた獅子舞が奉納され、神事祭事が整えられることとなり、篤く崇敬されています。 公式HP |
八幡宮 創建年月確ならねど、聖武天皇神亀3年、御託宣ありて創建せられたる由、宇佐宮託宣集始め、筑前旧志略等に見ゆ、社記には天正5年再建とあり、昔の本社は今の社地より、三町許り離れたる山上にありき、神祇紀聞等に引ける由来記に「穂波郡大分宮は我本宮あり、私に曰はば、大分我本宮は欽明天皇御宇御示現の前、御霊行の時なり」といひ、又八幡愚童訓に、延喜21年6月吾筥崎の松原に移り住まむと思ふと宣ひしなど見ゆるを以て知るべし、次に此地の關係を釈ぬるに、古き伝に神功皇后御征伐の後、誉田皇子を卒て宇美村より大口嶺(神功皇后御袴を脱せ給ひし処を大口嶺といふ)を越え、穂波郡に至り給ふ、皇子乳を呑み給ふ処を、呑乳坂(内住村の内なり)といふ、其麓に広平の地あり、皇后御覧して希見大野なりと宣ふ、故に其処を大野といふ、遂に大分村に至り、行宮を留め給ふ、故に後人其地を號して宮の裡といひ、此に八幡大神を鎭座し奉るものあり、而して当社は日本五所別宮の一として、鎮座最も古くまします、即ち諸神根元抄に「八幡五所別宮は、筑前大分宮、肥前千栗宮、肥後藤崎宮、薩摩新田宮、大隅国正八幡宮云々」と見えたり、神事には太宰府在庁の官人をして事を執らしめ、神田も多く、宮殿の結構亦甚だ厳重にて、祠官も十数人を置きたりしも、応仁より天正に至る九州の兵乱に、此地戦争の巷となりて、その後は昔日の観なしといへり、大内氏實録に云く「明応8年8月、大内の兵豊前小倉津に戦ひ、11日、太宰府筑後太市頼総を大分村に撃破し、八幡馬場及び内野坂に追迫し、太宰四郎を斬る」など見ゆるも、皆此の兵乱を云ふものなり、僧坊は妙見山長樂寺なりしが、維新の後にこれを廃せり、明治5年11月郷社に列す。` 社殿は本殿、拝殿、鳥居等にして、境内七百七十除坪(官有地第一種)を有せり。 明治神社誌料 |