織幡神社
おりはたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】織幡神社(名神大) 筑前国 宗像郡鎮座

   【現社名】織幡神社
   【住所】福岡県宗像市鐘崎224
       北緯33度53分16秒  東経130度31分32秒
   【祭神】武内大臣 志賀大神 住吉大神 天照大神 宗像大神 八幡大神 壹岐真根子
   【例祭】4月16日 例大祭  10月1日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】嘉3年(850)7月従五位下(文徳天皇実録)
       貞観元年(859)正月27日従五位上
       元慶元年(877)12月15日正五位下(三代実録)
       文永2年(1265)8月9日太政官符に記載
       文永9年(1272)9月3日宗像太神宮神官等の起請文
       元禄8年(1695)造立
       明治5年村社
       明治10年宗像神社の境外摂社
       明治15年郷社
       昭和3年県社

   【関係氏族】壹岐氏
   【鎮座地】古くよりこの地に鎮座

   【祭祀対象】本来は幡を祀る
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       幣殿、拝殿、神輿庫、社務所

   【境内社】須賀神社・恵比須神社・浜宮神社・今宮神社
        恵比須神社(北町)・恵比須神社(中町)・恵比須神社(西町)・石槌神社(中町)


『宗像大菩薩御縁起』によると、神功皇后の三韓征伐に際して、宗大臣(ムナカタの神)が他の諸將とともに從軍し、大いに奮戦して武勲を輝したというが、その時、宗大臣は〈御手長〉を"捧げ来り"、これに武内大臣(武内宿禰)の"織り持て"る"赤白二流の旗"を付けて、軍の前陣で"御手長を振り下げ""振り上げ"して敵を翻弄し、最後にこの<御手長>を"息(オキノ)御嶋に立て置きたまえり"とある。この"息御嶋"は宗像の"沖ノ島"に他ならない。そして〈御手長〉については、「異国征伐御旗杆也」とあり、これが壱岐島の「天手長男神社」「天手長比売神社」(式内・名神大社)の〈天手長〉に由來するであろうことは別に説いた通りである。(『住吉大社ノ史』上巻)尚、沖ノ島で発見の金銅製龍頭、旗幟類の竿頭を飾る具一対は、様式上6世紀中頃とされるが、上述の「御旗杆」との関蓮で検討の要があろう。そして武内大臣がこの「御旗杆」に付けられた「赤白ニ流之旗」を織つたので”織旗"の名字を得たという。
主祭神として、中座に武内宿禰、西座に住吉大神(住吉三神)、東座に志賀大神(綿津見三神)を祀り、天照皇大神・宗像大神・香椎大神・八幡大神・壹岐真根子臣を配祀する。
古くから武内宿禰を主神としているが、元来は武内大臣が織つたという幡を納めた社であろう。


由緒

延喜式名神大社(旧県社)祭神武内宿祢神、住吉大神、志賀大神、武内宿祢公は神功皇后と謀りて此地で赤白の軍旗を織られ軍船に立て異賊を平定(コトムケ)られ応神天皇の御時筑紫国を治められる此の鐘の岬の佳境を慕はれ此地は本朝無雙の霊地なり此の風景に飽くことなし我れ死なば神霊を此地に祭祀るべし国家安穏の守護神とならんと申され仁徳天皇の御代三百余歳にて双つの沓を遺こされ神去りましたので此地に沓塚を建て号を織幡神社と稱へ社を建てられました以来富貴長命航海安全の守護神と篤く尊崇されています霊験尊く参拝後をたたず
万葉集七 よみ人不知
千早振るかねの御崎を過れ共 我は忘れず志賀の皇神。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




織幡神社

織幡宮
一、祭神 武内宿祢 住吉大神 志賀大神
二、縁起
 平安初期、朝廷の年中儀や制度などの事を書いた”延喜式”の中に、日本中の神社が記してあります。織幡宮は、筑前十九社の第二番目に記され、宗像郡内でも、宗像大社に次ぐ神社として記録されています。 その昔、文字を持たない時代から、古代の人々は、山の神、海の神、岬にも神霊を感じて航海安全を「ちはやぶる神の岬」として祈った時代もあったと思われますし、織幡宮は武人、武内宿祢を鎮護国家の備えとして、交通要衝 鐘崎に祀ったといわれています。 古文書に、元禄8年(1695年)社殿造立。元禄16年(1703年)拝殿成就と記され、古い歴史がしのばれます。

社頭掲示板



織幡神社

沈鐘と巨石
昔の人は、金崎は鐘崎でここには海の向こうの国から来た釣鐘が沈んでいると語り継ぎ信じてきた。そして宗像興氏や黒田長政などがその権力に任せてこの釣鐘を引き揚げようとしたが失敗に終わった。
ところが大正8年に、山田菊次郎なる人が万金を投じてこれを引き揚げることに成功した。しかし現れたのは釣鐘ではなく、このような巨岩であった。人々はがっかりしたが、いまでも本当の釣鐘は海底に沈んでいるとの思いを捨てかねている。
このような話は沈鐘伝説といって諸国に例があるが、ここのは、そのもっとも有名なものである。沈鐘と巨石、夢と現実、まことに面白い郷土鐘崎の物語である。
昭和49年10月  碑文 福岡県文化財専門委員 筑紫豊

社頭掲示板



織幡神社

ここ鐘崎の先祖は鐘崎海人と呼ばれ、進取の気性に富み、航海術に秀で各方面で大活躍したそうです。特に潜水技術に優れた鐘崎海女は西日本の海女発祥の地であり、出稼ぎ地であった能登、長門、壱岐、対馬などには分村が出来たと言われています。
海女発祥の地という事実通り、鐘崎周辺はアワビ、サザエなどの豊かな漁場なのです。現在はただ捕獲するだけでなく「栽培」にも力を入れており、福岡県栽培漁業センターにてアワビ、クルマエビ、ウニ等を卵から育て近海に放流しています。
**** ( 織 幡 神 社 )****
 この織幡(おりはた)神社は鐘崎の岬にひっそりとありますが、実は非常に歴史のある神社なのです。なぜかと言うと、西暦927年に編さんされた 延喜式神名帳には全国の神社が2861社記載されていますが、そこにちゃ〜んと記載されているのです。
これに記載されているということは西暦927年当時に相当大きな神社であったということです。この近辺で記載されているのは宗像大社(沖津宮・中津宮・辺津宮)、この織幡神社、志賀島にある志賀海神社、福岡市内にある筥崎宮、住吉神社 だけです。近くの宮地嶽神社も高倉神社も記載されていないのです。この延喜式神名帳に記載されている神社を「式内社」といい、由緒ある神社ということで神社の中でも格上なのです。
ちなみに、祭神は、神功皇后の三韓出兵に従った大臣である武人・武内宿禰と航海神・住吉大神、志賀大神です。
**** 梵鐘伝説(沈鐘伝説 )****
 万葉集に「金の御崎」と歌われる鐘崎。その海中には古くから梵鐘(ぼんしょう)が沈んでいるという伝説があります。
それは今から約1400年前に、朝鮮半島から貢物(みつぎもの)として大きな鐘が我が国に運ばれてきましたが、岬の突端で大波によって沈んだことから、この岬を鐘の御崎(岬)と名付けたそうです。そして鐘は海に沈み龍神(りゅうじん)に守られて、風が強く波が騒ぐ日は澄んだよい音を響かせました。それで鐘崎の東の海を響灘(ひびきなだ)というようになったそうです。
この沈んだ鐘を引き上げようと過去3回試みましたが、いずれも失敗しています。75代宗像大宮司、黒田長政、大正9年には田川の山本菊次郎さんが引き上げ試みました。巨額の費用をつぎ込み山本菊次郎さんが鐘と思ってひきあげた大岩が織幡神社の入口に置いてあります。

http://www.yado.co.jp/tiiki/munakan/kanesaki/kanesaki.htm



織幡神社

御神体は木像の由、鎮座年月等詳かならねど、文徳天皇嘉祥3年7月從五位下を授けられ、清和天皇貞観元年正月従五位上に進み、陽成天皇元慶元年12月正五位下に叙せられ給ふ(文徳実録三代実録).醍醐天皇延喜の制に名神大社に列り、同郡宗橡神社に次げる名社なり、往古は社領葛原谷八町余を有せしと伝ふ、明治2年5月藩主黒田家より御供米拾俵御寄附の例となり、翌3年12月福岡藩從前の寄附を廃し、更に三十五石を寄附せりといふ、明治5年11月村社に定まり、同10年3月宗橡神社摂社となり、同15年8月郷社に昇格す、祭神は、文永2年8月9日の官符に「織幡大明神在金崎、本地者如意輪観音垂跡、武内大臣之霊神也云々(宗像記近考)」とありて、文安年中の縁起にも武内宿禰なりとし、口碑亦しか伝へたり、而して筑前國続風土記に「山の傍に神廟あり、相殿と云ふ、武内宿禰此山佳境なるをしたひ、われ死なば、神霊はかならす此地にやすんずべしとのたまふ、即ち異賊襲来の事を守り防がんためなりとぞ、これによりて後人此地に祠を立つ」と見え、又同書に「同社より登れば、右の方に武内大臣沓塚とて石塔あり、里俗は大臣天に登り給ふ時、沓をここに脱ぎ置き給へりと云ふ」と見ゆるは、総て當社の事なり、社記に「當社の草創は履仲天皇の御代、武内大臣此岬に至り給ひて、全身上天ありし所を、和魂の表として是を沓塚と名づけ、やがて此の霊地に荒魂の表を立て、織幡神社と號して、壱岐真根子臣の子孫の人伝へて祭る」と云へり、又一説には、當社は呉織女を祭れるにはあらざるかともあれど、素より根拠を有せる説にあらす、次に志賀大神以下八幡大神は、筑紫の名社の神を合せ祭れるものと覚ゆれど、其年月未た考へす、壱岐真根子臣は、社記に「神官一人入江氏、壱岐真根子の裔也」とあれば、かかる關係より、何れの頃にか祭り加へたるなるべし。
社殿は本殿、渡殿、拝殿、参籠所、神輿蔵、神饌所、社務所等を備へ、境内四百五十六坪(官有地第一種)を有し、地は玄界灘に突出せる鐘岬の頂端に位し、地を出崎といひ、老樹欝蒼頗る神々しく當地方に名高し、績風土記に、海上より見れは、其形屋形に似たるより、一に屋形山とも称する名所なりとの説ありといへり、口碑に往古三韓より大梵鐘を舶蔵せしに、此処にて沈没せしより鍾崎といふ、晴天波穏なる時、海底に髣髴として梵鐘を認め得るに由にて、文明5年宗像大宮司興氏、士卒を役して船を從へ、帳櫨を以て引揚を試み、慶長9年黒田長政も亦、地島築工の折之を試みたることありしも、遂に果たさざりきといふ、古歌あり萬葉に「千早振かねのみさきを過れどもわれはわすれす志賀のひめ神」又「しら浪の岩うつ音やひびくらむ鐘の岬のあかつきの宮」衣笠内大臣、是等の外新古今、俊頼歌集等にも見ゆ、又神官小遊に「右鐘崎浦神 穹孤立、三面■飛枕海、自海上望之如厘屋故又名小屋形山自右大辮藤原道俊之録面矣」と見え、筑前名寄等にも委しく當地を紹介せり、宝物として古鑑三面(嘉祥3年8月朝廷より献せらる勅使散位從五位下高原王)、旧志略にも「神宝に古鏡四面、三面は唐鏡、一面は観喜天の像あり、背面に須藤駿河守行重」とあり。

明治神社誌料



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