仲哀天皇が熊襲征伐に当たり、行宮をここに設けたという。 ところが天皇が戦線を巡視した時に毒矢に当たり、この地で崩御した。 神功皇后は兵士の士気の衰えることを恐れて喪を秘し、熊襲征伐の後、香椎の宮で発喪したという。 その後朝鮮出兵にあたって、御魂代の石を軍船にのせ仲哀天皇の鎧と兜を着せて征途につき、戦勝後凱旋すると、その石を天皇の御魂代として、また朝鮮半島を守る不動石として祀ったと伝えられている。 今社前にある石がこれで、御勢大霊石といわれている。 社前の立石の場所が天皇殯葬の地といわれている。 |
由緒 創立神功皇后2年 天皇筑前国橿日宮にて崩まし、又皇后天皇の御手代として姑く男貌を假り石を以て御形代とし、これを奉し三韓を征し給うに、三韓不日に服従し、又御凱陣の後大保郷に宮柱太敷立て砦を祭り給ひ、御勢大靈石神社と崇る。 神前に御剣・御衣を納め給ふ。これを御本體と称す。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
御勢大霊石神社 神功皇后2年(202)創建、社記・伝説によれば第14代仲哀天皇は熊襲征伐に当り、橿日宮の本陣より此の地に軍を進められ大保の里が白州で清浄であったので天神地祇を祀り仮陣地とし軍を指揮された。偶々近臣を従え志気を鼓舞するため戦線を廻られた折、敵の毒矢に当られて此の地にて崩御された。皇后は時恰も激戦中で志気の沮喪をおそれ深く秘して仮に御殯葬申し上げた。 熊襲征伐後軍を纏めて御崩御を布告し、御霊柩を橿日宮に移して発喪された。その後三韓征伐に於て御魂代の石を軍船に乗せ、その石に仲哀天皇の御鎧及び兜を着せて征途につかれ、戦勝御凱旋されて、その石を天皇の御魂代として、大保の郷の殯葬の地に宮柱太敷立て斉き祀られ御勢大霊石と崇められた。 今、社前にある石がこれで御剣・御衣も納められ御本體所と称する。御勢を夫にて皇后よりの尊親の称である。 由緒書 |
御勢大霊石神社 当社は延喜式神名帳に、「筑後國御原部御勢大霊石神社小社」とあるもの即ち是なり、(御勢ほ伊勢を誤れるなるべしと契沖の云へるは如何)社伝によるに、神功皇后摂政2年壬午の鎮座にして、天皇橿日宮に崩しましてより、皇后姑く男装をなし、石を以て御形式として之を奉じ、三韓を征し給ふ、かくて凱陣の際、即ち此所に御神霊を安置し奉り、國家鎮護の霊境と崇め、大霊石神社と称へ給ふと云ふ、又或は云ふ、此地高良山と竃門山との中央にして、天皇熊襲を打ち給はんとして巡狩の時、此地を行宮地と定め給へる地とも云ふ、而して大保の郷に宮柱太敷立ち、永く鎮護の神とならせ給ふ、されば欽明天皇明安10年庚午、及天武天皇白鳳9年庚辰、宇多天皇寛平3年、鳥羽天皇天永3年、高倉天皇安元2年の数度御造営ありて、神田の寄附等もありき、又文明2年には、筑紫廣門社殿を修理し給ふ等、結構頗る宏壮を極めしが、天正14年兵火の災に罹りて、社殿等悉く焼失しぬ、後年大保村の農長某是を修補す、次いで「天和2年に至り、旧領主有馬伊豫守豊範本殿拝殿の専建あり、其後の造営材木は旧久留米藩より、雑費は御井御原両郡割符を以てなす事となれりと云ふ、其盛大想ふべし、久留米志亦当社は式内社となし、筑後地鑑にも「御勢大霊石神社、愚按、此神亦久雖知之者鮮、近自寺社奉行被尋覚而顯之社務守之有状」とあり、なほ之に拠る時は、此頃余り世に顯れず、衰頽に近かりしものにてもあるべきか、同書三巻に「仲哀天皇殯蹟は御勢大霊石の社前にあり」と見え、社記に「社前に御劒御衣を納め給ふ、之を御本体所といふ、社の前に二間四方計石垣を作り上げたり、是を仲哀天皇の御墓なりと云ふ、上に古木二本あり、其の中に石を埋めたり」と云ひ、即ち郷土史誌等にも「されば河内國恵我の長野陵に葬られ給ふ迄、御遺骸はこの地に留められたるものなるべし、而も天皇崩御後、新羅征伐、壕阪忍熊の乱打続きたれば、改葬せられしは数年の後なれば、此地に永く御留められたるなるぺし」と云へる、亦さもあるべき事歟、考ふ可き事なり、而して当社は御原郡十九ケ村の産渉神なりと管内志に記せり、かくて明治6年3月郷社に定まり、次いで縣社に昇格す。 建物は天和2年旧領主有馬伊豫守豊範、本殿、拝殿を再建し、其後造営の材は、皆旧久留米藩より、雑費は御井御原両郡より、割符にて支辮し來りたりといふ、現今社殿は、本殿、幣殿、弁殿、潔斎所等を具へ、境内は1060余坪(官有地第一種)を有し、樹木鬱蒼として御手洗池などの構へもありて風致佳なり。 明治神社誌料 |