伊勢天照御祖神社
いせあまてらすみおやじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】伊勢天照御祖神社 筑後国 三井郡鎮座

   【現社名】伊勢天照御祖神社
   【住所】福岡県久留米市大石町132
       北緯33度19分0秒、東経130度29分52秒
   【祭神】天火明命
   【例祭】10月26日
   【社格】旧県社
   【由緒】仁和3年(887)8月従五位下
       天慶7年(944)正五位下

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】大きい平石
   【祭祀】江戸時代は「大石太神宮」と称していた
   【社殿】本殿神明造銅板葺
       拝殿

   【境内社】

現在の本殿は床がなく土間で、大きい平石が殿内一杯にあるという。境内は付近より小高く、周囲に外堀の面影もあり、大古墳の石室の蓋石という見解もある。また境内には彌生中期の土器片が散布しているので、或は支石墓とも考えられる。この石の大きさは「方九尺」、別に「方三尺」という。
江戸期には「大石太神宮」「大石神社」と称していたが、代々この神社の祠官であつた船曳鉄門が明治になつて自論から社名を改称したものと思われる。


伊勢天照御祖神社

大石太神宮ともいわれ、天照国照彦天火明尊。『先代旧事本記』の天孫本記は、この神のまたの名を饒速日命・天火明命などといい、高天原から河内の哮峯に天降ったのち大和の鳥見に遷り、長髄彦の妹を娶って物部氏の祖宇麻志麻治命を生む、と伝える。
 『延喜式』神名帳は、筑後国三井郡三座のうちに「伊勢天照国照御祖神社」を記すが、久留米市御井町の高良大社の末社と当社に比定が分かれ、他に『筑後国神名帳』の三潴郡「正六位上大石兵男神」を当てる説もある。
 古代の郡界が不明のため本来の所在地は定めがたい。矢野一貞は『諸社拾実鈔』で当社を式内社としているが、その論拠は注目に値する。いわく「社後の土中に許多の齎瓮埋もれたり、掬うべし、千年外の祭器なること疑いなし」今、大石村と庄島村の界いに小川あり、此わたりにて白鳥川と云い、此源は三井郡国分村より出て、同郡中村を過ぎ西久留米(三潴郡)を分かち、府下三本松町、池町を経て大石と庄島を分かち筑後川に入る。此川や古の郡界なりけむ。(中略)此地必御井に属すべき地勢なれば此御社こそ式に載れる御祖神社なるべし。神号の均しき、社伝の拠のある、神実の甚古記、祭器の許多残れる、地理の接はれる、相殿の神等の厳重なる由緒ある。彼是以て思い定べし。
 神社のある大石町は現在市街地になっているが、台地と筑後川の自然堤防の上に、大石神社遺跡・速水遺跡・南崎遺跡など弥生時代中〜後期の遺跡がひろがっている。大石町の当社の神体は、本殿土間にある巨石で、支石墓の上石あるいは古墳石室の蓋石かと推測されているが、江戸時代の『筑後志』や社伝は、この霊石が年々肥大するという伝承を伝える。また石の大きさは「方九尺」、別に「方三尺」という。この巨石を祀る伝承が神社発許にひきつがれているとすれば、祭祀はより古く、巨石は磐座であるかも知れない。
 またこの神社も、社名と祭神から見て物部氏の日神祭祀に関連していたと思われる。例祭は10月26日。夏祭りは7月14日、15日。

社頭掲示板



十五夜さん大綱引き

久留米市指定無形民俗文化財
平成22年8月26日指定
正確な由緒や開始時期は不明ですが、口伝によれば約400年前の江戸時代初め頃から、伊勢天照御祖神社(通称大石神社)の氏子の人々が名月の夜に綱引きを行ったものと伝わります。綱引きをしなかった年には悪疫がはやるとの伝承もあり、無病息災・五穀豊穰を祈願して行われた行事であると考えられますが、大綱の形状が、一方の端に丸く輸を作り、他方を二又に分けることから、大蛇の姿を表現したものとも考えられ、筑後川を鎮めるための行事とも言われています。
昭和12年に戦争の影響で途絶えましたが、昭和52年に、廃絶前を知る人への聞き取り等を行い古い形態を復活させました。
大綱引きは毎年旧暦の8月5日開催されます。使用される大綱は長さ35m太さ35p程で、約1トンの重量があります。大綱とともに長さ10〜15m、太さ10〜15pの小綱も準備されており、当日の夕刻、綱の奉納神事の後に大綱小綱をかついで町内を練り歩きます。
綱引ぎは東西に分かれた地区対抗戦の後、源平合戦に見立てた子ども〔源氏役)対大人(平氏役〕の綱引きが行われます.この綱引きは「ゲンゴベの綱引き」と呼ばれ、子どもが必ず勝つことになっています。
綱は神聖なものとして、その後正月まで絵馬殿に保管され、正月の深夜0時に卸神火式を行い焼納されます。また、綱の灰は「御神灰」としで参拝者に分配されます。 盆綱引き行事は、1996年の福岡市の調査データによると、県内ではかって61例が存在していたとされていますが、調査時点において、既に29例が廃絶し、4例が形を変えて存続している状況であり、伝統の通りに実施しているのは28例に過ぎないと報告されています。なお、筑後では14例が確認されており、内11例が廃絶しています。
久留米市内では、近年まで大善寺町や安武町で実施されていたと伝えられますが、境在はこの「十五夜さん大綱引き」を除き、ほとんど行なわれていません。
筑後地方の盆綱引きの一例として、失われつつある民俗行事を守るため、平成22年8月26日に久留米市指定の無形民俗文化財となりました。
平成23年9月久留米市

社頭掲示板



伊勢天照御祖神社

創建年代詳ならす、延喜式に三井郡伊勢天照御祖神社あり、管内志に「伊勢天照御祖は意世阿萬弖留美於也と訓むべし、名の義は、伊勢國に鎮座で、天照大御組神の意なり(社社の名に伊勢何と云ふ「式」に多く見ゆ)、又社記一説に云く、伊勢は石の訛にて、此の地の名なり、天照御祖とあるは、物部氏の祖先、饒速日命を祭れるならん、諸州其例多し云云」と見えたり、民部省圖帳の残篇に「筑後國云々神明神貢五十七束有余田、桓武天皇延暦3年甲子9月、依國司藤原易輿之受奏、伊勢国山田原御遷座」、とあるも、正しく此御神の事と知られたり、又筑後通鑑に「伊勢天照御祖神社、愚按此神者有何処也、頃尋高良神職家云、在山麓石社地」とあるは詳ならざれども、強いて考ふるに、古くより玉垂神社、豊比盗_社と、三社同所にありしなるべし、豊前國香春の永宇御宮なども、三社同所にあり、又「天正6年筑紫鎮桓が斎ける神にも高良三社とあり」次いで筑後志當神社の下に「中世兵火に罹り廃絶し、今其旧跡を尋ぬるに拠なし、後年山下石鳥居の邊に小祠を建て勧請せり、何人の所爲なることを知らず、近曾又高良神社に詣る山路の中央に移し、新たに小社を建立せり云々」と見えたるは、即ら此神社を指せるものなり、明治6年3月14日縣社に列す。社殿は本殿、及拝殿を備へ、境内619坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



伊勢天照御祖神社

 いせあまてらすみおやじんじや 福岡県久留米市大石町。式内社。旧県社。大石大神宮とも称され、祭神は天火明命。『延喜式』に三井郡三座の一座としてみえる。天保12年(1841)成立の『太宰管内志』(伊藤常足著)には社名は伊勢に鎮座の天照大御祖神を祀る意であると記されている。 ある時期中絶された期間があったが再建され今日に至っているという、例祭10月26日。

神社辞典



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