縁起によると創立は天智6年(667)で神武天皇御東遷の途路に速吸の瀬戸において海女黒砂・真砂の二神が海底から取り上げて奉献した神剣を御神体として、古宮の地に天皇御自ら祓戸の神(速吸日女神社)を奉献し建国の大請願をたてられたのが創祀である。大宝元年(701)神慮によって現在の社地に遷座。 |
由緒 近衛天皇久安元年、神像が海中より出現の奇瑞があり、これを奉斎したのが起源。 のち旧社地古浜より現社地に遷座、社地を拡張した。 以来崇敬を集めて今日に至る。 昭和11年に郷社に列した。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
早吸日女神社 祭神 八十枉津日神 大直日神 底筒男神 中筒男神 表筒男神 大地海原諸神 創祀 皇暦記元前7年(西暦紀元前667年) 社格 式内小社 旧県社 境内地 21,196坪(70,069平方メートル) 境内末社 12社 由緒 当社は人皇初代神武天皇御東遷の途路、速吸の瀬戸に於いて海女黒砂真砂の二神が海底から取り上げて奉献した神剣を御神体として古宮の地に天皇御自から祓戸の神(当社祭神)を奉斎し建国の大請願をたてられたのが、創祀である大宝元年(701年)神慮によって現在の社地に遷座。延長5年(927年)延喜式を制定するに当り式内社に列せられ爾来諸災消除開運の神として皇室を始め諸大名の崇敬厚く遠近の諸人も伊勢神宮になぞえ関大神宮又御関様(関権現)とも称し伊勢神宮に参詣することを参宮当社に参詣することを半参宮ととなえ、多くの信仰をあつめて今日に及ぶ。慶長5年(1600年)兵火によって社殿宝物一切を焼失したが慶長7年加藤清正侯当地を領するに当り社殿を再建後、藩主細川侯の再建修築に係るもの多数現存 昭和48年9月社殿改修並に社務所、参集殿新築工事竣工、更に神社の荘厳さを加える。 平成16年3月、本殿、総門、及び当社社家(小野家住宅)の三件、大分県指定有形文化財となる。 社頭掲示板 |
早吸日女神社 皇暦紀元前7年(西暦紀元前667年) 初代神武天皇ご東遷の途次、速吸の瀬戸に於いて、長い間大蛸により守護されていた神剣を海女の黒砂、真砂が海底より取り上げて天皇に献上された。 その神剣を神体として、古宮の地に天皇御自ら祓戸の神を奉斎し、建国の大請願をたてられたのが創祀である。 大宝元年(701年)ご神慮により古宮の地から現在の社地に遷座。 古来から諸災消除・厄除開運の神として、皇室、諸大名を始め諸人の崇敬をあつめ、荘厳な社殿や数多くの建造物が献納されている。 公式HP |
早吸日女神社 早吸日女神社にまつわる話は古の時代からの謂れがあり、神武天皇の東遷の折に、古宮に祠を建て、祖先の剣をご神体として奉納し、早吸神として長い間、村人達の心の拠り所となっていたことや、その後、701年に現在の地に社が建てられ、漁を生業とする漁師と共にあったといわれています。 1600年の「関が原の合戦」の折には、この地で東軍の竹田藩と西軍の臼杵藩の激しい戦いがあり、ここら一帯は焼き払われ、早吸日女神社は全焼しました。その2年後の1602年には、佐賀関が肥後藩の飛び地であったことから加藤清正公が、同じ地に神社を再建しました。 江戸時代には、「関の権現さま」と慕われ、「罪や穢れ」を払い落とす神として、また「海上交通の安全」を願う神としてお参りされています。また神社は、本殿、拝殿、神楽殿、総門等から成り、奥行きが深く建てられており、県や市の有形文化財に指定されています。 社頭掲示板 |
早吸日女神社 創建年代詳ならすと雖も、神名帳考証に、「早吸日女神社。今在佐賀郷、速津媛命、速吸名門在豊後伊予両州之間称鷹島、今云高島、承和10年、無位早吸比盗_奉綬從五位下、速秋津姫命、按吸與津横音通、由此見之秋語助、豊後国風土記云、昔者纏向日代宮御宇天皇、欲誅球磨贈於、幸於筑紫、從周防國佐婆津発船而、渡泊於海邊郡宮浦、時於此村有女人、名曰速津媛、為其処之長、即聞天皇行幸親自奉迎奏言、此山有大磐窟、名曰鼠磐窟、大蜘蛛二人住之、其名曰青白、又於、直入郡禰疑野有上蜘蛛三人、其名曰打媛、八田、國摩侶、是五人並為人強暴、衆類亦多有、悉皆謡云、不從皇命、若強喚者、興兵距焉、於茲天皇遣兵遮其要害、悉誅滅」と見え、神社覈録に云「早吸は波夜須比と訓べし、釈日本紀速吸、(仮字上の如し)祭神明か也(今按るに、速秋津比売神なるべし)佐賀郷鶴崎に在す、古事記神代段生水戸神名速秋津日子神次妹速秋津比売神日本紀一書曰、乃往見粟門及速吸名円同記、神武天皇甲寅年10月、天皇親帥諸皇子舟師、東征至速吸之門、古事記(神武段)故從其國上幸之時、乗亀甲爲釣乍、打羽挙来人、遇于速吸門、神位、続日本紀、承和10年9月甲辰、豊後国無位早吸比盗_奉授從五位下、三代実録、元慶7年9月2日乙丑、授豊後國從五位上早吸盗_正五位下」と云ひ、神紙志料に曰、今佐賀郷佐賀關早吸灘の邊に在り、六所社と云ふ、蓋速秋津姫命を祭る、此は伊弊諾尊の御子水戸神にして、所謂荒塩之塩の八百道の塩の八百會に坐神也、凡六月晦祭を修む」と見え、共に海部郡式社とす、又大宰管内志に 「速吸梼ミノ記に昔伊弊諾神、浮潜潮中云々、高門岩、稚御子二女神、共防衛伐除材木、於田苅穂、造宮殿鎮座給、御名號早吸比盗_、醍醐天皇昌泰中此社移曲浦清地、後世称関権現社云々」 とあり、上下の崇敬厚く、即ち「佐賀関十一町 関権現御神領」など弘安の圖田帖に録記せられ、又亀山随筆に「毎年6月28日より7月朔迄祭あり、領主細川家より社領五十石を寄附し給ふ、神官あb、關氏なり。」 とあるを以て知るべし、社伝に曰、文武天皇大宝2年、日向国守京師に赴く時、速吸名門に於て船進まず、水主等之を怪しむ所に、何処よりともなく小舟一隻国司の船に近寄り来る、之を視るに二少女なり、故を問ふ、答て曰、我等は此所の蛋にして異砂眞砂と云ふ者なり、此早吸名門は神代に於て諾尊初て身濯祓し給ひし時、此所の高疾水に神劔を被き揚て汝に与ふべし、是を神体として崇祭すべしと言ひ詑りて忽ち見えず、 暫くありて彼二人の海士劔を被き揚て再び来り國司に与ふ、依て曲浦の高風浦(今の古宮村)に船を著けて、此所に小祠を創設し、獲る所の劔を神体と崇祭して去れりと、其地今尚ほ社ケ浦と言伝ふ、其後醍醐天皇の昌泰の初め神霊に感じ清池(現地)に奉遷し、以て今日に至ると云ふ、明治6年2月縣社に列せらる。 社殿は本殿、祝詞殿、廻廊、拝殿、神樂殿、神饌所、社務所にして、境内1887坪(官有地第一種)廣澗なる社域老樹蒼蔚庭園趣致多く、幽寂にして徐に神域に入るの感あり。 明治神社誌料 |
早吸日女神社 早吸日女神社 はやすいひめじんじや 大分県北海部郡佐賀関町大字関。速吸瀬戸(豊予海峡)の守護神として、その佐賀関半島にあり、神仏習合期に関六所大権現宮と称したことから今に「お関様・関権現」として親しまれている、旧県社。式内小社。祭神は八十枉津日神・大直日神・底筒男神・中筒男神・表筒男神・大地海原諸神。『記』「紀』の神武東征の条に「速吸門」とあるのはこの地のことで、社記では「早吸の瀬戸に於て海女、黒砂・真砂が海底より取上げて、奉献した剣を神体として、古宮の地に天皇御自ら祓戸の神(当社祭神)を奉斎」されたのを創始とする。承和10年(833)従五位下、元慶7年(884)正五位下(『三代実録』)の神階を受け、延長5年(927)式内社に列格、加藤清正はじめ歴代領主の崇敬を受く。例祭7月29日。特殊神事に神衣祭(7月28日)・還幸祭(7月30日)。近くに椎根津彦神社がある。同名の神社に南海部郡浦江町大字西野浦鎮座がある。 神社辞典 |