景行天嘉が速津媛に迎えられ、土蜘蛛誅滅の時天神地祇皇祖等を祀つた社であるという。 社名や周辺出土品などからみると、弥生末期に、祭りが始まつたのではないかと思われる。 池水の神として動物「ウナギ」を沼沢の精霊として祀つたことに起因しているといわれ、また、「うなぐ」とは勾玉などの首飾りを意味するとし、こういった呪具を身につけた女首長の巫女が神に転じたとも推測されている。 由布岳の南西山麓に鎮座している。『太宰管内志』では「木綿山にます神なので木綿ノ神社ともいう」という記述があるほか、『豊後国志』でも宇奈岐日女神は由布山神であると記されており、元々は由布岳を神体山として成立した神社であると見られている。 |
由緒 鎮座地 大分郡湯布院町大字川上字六所2220番地 御祭神 國常立尊 國狭槌尊 彦火火出見尊 彦波瀲武鵜鵜草葺不合命尊 神倭磐余彦尊 神渟名川耳尊 御由緒 創祀は人皇第12代景行天皇の御宇12年冬10月。 嘉祥2年(849年)6月、「従 位下」(続日本後紀)。 元慶7年(883年)9月2日、「正五位下」(三代実録)に叙されている。 延長5年(927年)、「延喜式」の「神名帳」に列記された「式内社」である。 明治6年郷社、大正12年県社に列せられた。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
宇奈岐日女神社 昔、由布院盆地は周囲を山に囲まれた大きな湖であった。 ある日、霊峰由布岳の化神宇奈岐日女が、力自慢の権現をしたがえて山の上からジッとこの広大な湖を眺めていた。 やがて権現に向かって日女は静かに、「この湖を干拓すれば、底に肥沃なる土地があらわれて、多くの民が豊かにくらせよう。 おまえの力を以ってこの湖の堤を蹴り裂いてみよ」と命じた。権現は、「あらん限りの力を以ってお言葉のとおりに…」と答え、湖の周囲を一巡りした後、内徳野の湖壁の一番薄いところを見つけ、満身の力をふりしぼってそこを蹴り裂いた。 湖水は怒濤となって奔流し、やがて湖底から現在の盆地が現れた。 里人は宇奈岐日女を由布院開拓の祖として大きな社を建て、そこに祀った。これ即ち宇奈岐日女神社である。 堤を蹴り裂いた権現は、内徳野の蹴裂権現社に祀られている。 ご神体は大きな石である。 伝説 |
宇奈岐日女神社 創建年代詳ならずと雖も、神名帳考証に、「字奈岐日女神社、在由布郷、宇那比姫命、阿波國宇奈爲神社、陸奥國字奈己呂和気神社、按己呂反切岐也、出雲国風土記云、奴奈宜置波比売命と見え、神社覈録に、「宇奈岐日女は假字也、祭神明か也、油布郷に在す、神位、続日本後紀、嘉詳2年6月癸未朔、奉授豊後國宇奈岐比盗_從五位下、三代実録、元慶元年9月2日乙丑、授豊後國從五位上宇奈岐比盗_正五位下」とあり、又神祇志料に「今油布郷油布山に在り云々」と載せ、大宰管内志に、「延喜式に速見郡宇奈岐日女神社大とあり、宇奈岐日女は紆那芸比売と訓むべし、(木綿山にます神なれは、木綿山の神社とも云ふなり、名寄に、左兵衛督教定、神垣に誰手向とはしらねども卯の花さける木綿の山かげ)御名の義未だ考へず」と云ひ次に神位のことを叙べて後、更に「旧記に曰、速見郡宇奈岐日女神社、在由布郷温湯村、中古巳來、祭國常立尊国狭槌尊、豊斗淳尊、彦波険武鵜草葺不合尊、彦火々出見尊、磐土彦尊、號六所権現、或號木綿山神社」などあり、又亀山随筆に「木綿山ノ神社は、杉群の中にあり、南■口に鳥居有て、其榜額に木綿大明神とあり、又其両ノ柱には火ノ男火ノ売ノ神と彫付たり、是は火ノ男火ノ売ノ神のます山、度々災ある由にて、此神社に移し奉りしを、神官等の猥にかくは物したると聞ゆ、御祭は9月15日なり、其日神輿を出して、17日に還幸なし奉る、此社地、今は日向ノ國延岡内藤家、領内なれど、公領ノ民ともに此神を祭る事なり、神官は立川氏なりとあり」と見ゆ、社伝に記する所と大同小異なり、此く由緒ある名祠なるを以て、往古は祭田数百因を有し、爾來代々の領主亦許多の社領を寄附せられ、維新の際に至るまで数反歩を有せしと云ふ、明治6年郷社に列す。 社殿は本殿、渡殿、拝殿、神樂殿、廻廊、楼門等具備し、境内7034坪(官有地第一種)を有す。 明治神社誌料 |