西寒多神社は初大野郡野津ノ荘寒田村にあつたのを伝えによると、大友能直十世ノ孫式部大輔親世、応永7年、將軍義満により從四位下九州節度使に補せられたとき、応永10年3月この神社を、居城の南に移して、この地を寒田と名づけたとある。その後此の地大野郡寒(サワ)田の方は衰え、今は祭日の定めもなく、神官なども絶え、僅かに一茅宇が残るだけになつたとある。 『龜山隨筆』にも「西寒多神社は初め、大野郡野津ノ荘寒田村」に鎮座していたことが記されている。 明治維新後、八幡神に新に五神を合祀し、「西寒田神社ト奉称シ」たとある。 |
西寒多神社 延喜式云豐後國大野郡一座大西寒多神社 三代實録云貞觀十一年三月庚辰授豐後國无位西寒多神從五位下灼然傳之書乃□加□□□□□□□西寒多之神 文化九年十一月從五位下藤原□長宣綱男鶴峰戊申作 社頭石碑 |