由緒に「神功2年10月、神功皇后三韓征討御帰陣のさい西寒多山に御幸ありて西方の国々を叡覧し給う。即ちその証としてその地に一本の白旗を立ておき給しを国人之を敬いて籬垣を結び皇威を尊崇し奉る。是に由って人皇第16代応神天皇の御宇国人等この地に宮殿建立の願いを奉聞し奉れば御皇叡聞ありて武内宿禰を筑紫に勅して乃豊後国に下向し加法神殿を建立す。」とある。 |
由緒 一、鎮座地大分市寒田(そうだ)1644番地 二、御祭神 西寒多大神(ささむたのおおかみ)、月読大神、伊弉諾大神、伊弉冊大神、大直日大神、神直日大神、八意思兼大神、大歳の大神、倉稲魂大神、軻遇突智大神 三、由緒 創祀は遠く応神天皇9年西暦278年4月に武内宿禰勅命を奉じて西寒多山上に宮殿を建立すとあり。 延喜式内の大社として国司をはじめ武将の信仰あつく、とくに大友能直公、宗麟公をはじめ代々の尊崇厚く、応永15年(1408年)3月、大友親世公社殿を現在地にうつし、家内安全、婚姻、学業、農業、食物、厄除、交通安全、消防の守り神として国民の崇敬いよいよ深く、明治4年5月14日、国幣中社に列格、豊後の国の一の宮として皇室及び国家の優遇をうけ宝物として宗麟愛用の印章四個、大友能直、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の古文書を有し、現在別表神社として尊崇をあつめている。 四、主なる祭典 元旦祭1月1日、元始祭1月2日、厄除星祭3月1・2・3日、祈年祭3月15日、例祭4月15日、ふじまつり大祭4月29日より5月5日まで、勧学祭5月5日、大祓6月30日、夏越祭7月最後の日曜日、新嘗祭11月23日、大祓・除夜祭・古札焼納祭12月31日、月次祭毎月1日、神幸大祭三年目毎、御神衣祭(特殊神事)三十三年目毎に御祭神の御神衣を新調する式年大祭、初宮詣、厄除、交通安全、入学祈願など毎日受付 五、境内 神苑27、145平方m ふじ樹齢450余年、幹径1m、棚の広さ330平方m、花房1.5mにおよぶ稀有の名木と数百株の平戸つつじ。春の新緑、秋の紅葉は荘厳な社殿とともに清遊をかねた霊地である。なお本宮山奥宮まで6Kmの登拝路は一日の家族ハイキングコースとして快適である。 六、参拝順路 JR大分駅下車国道十号線を南に府内大橋経由軒田橋右折2Km大分バス定期便トキハ前より乗車、ふじが丘行きふじが丘南下車徒歩8分、大分バス定期便山一証券前より乗車、西寒多行き終点下車 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
西寒多神社 旧国幣中社 豊後一ノ宮 西寒多神社御由緒 西寒多大神(天照皇大御神) 伊弉諾大神 伊弉册大神 大直日大神 神直日大神 八意思兼大神 軻遇突智大神 大歳大神 倉稲魂大神 御由緒 創始は遠く応神天皇9年(西暦278年)4月武内宿禰公勅命を奉じて西寒多山(現本宮山)上に宮殿を建立し後に大友十代親世公が応永15年(西暦1408年)3月に社殿を現在地に遷し今日に至る。尚延喜の制には式内大社に列し豊後の国の一ノ宮として国司をはじめ武将の信仰特に大友能直公大友宗麟公の尊崇あつく、明治4年5月14日国幣中社に列格。大分県内では宇佐神宮につぐ神社として皇室、国家をはじめ国民の崇敬いよいよ深く現在神社本庁別表神社として尊崇をあつめている。宝物として宗麟公愛用の印章をはじめ大友能直公、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公等の古文書を有している。 社頭掲示板 |
西寒多神社 旧国幣中社、豊後一ノ宮として広く知られる西寒多神社の由緒は、神功皇后が三韓に兵を進めて帰陣の折、西寒多山(現在の本宮山)に行幸して四方の山々を御覧になり、そこに一本の白旗を立ててお帰りになった。その後、人々はそれを敬ってその地に端垣を結び、聖地として崇めるようになり、やがて応神天皇の御代にこの地に宮殿を建立するため朝廷に願い出て、勅許を得た。勅を奉じた武内宿禰は応神九年、豊後国に下向して宮殿の建立に当たった。 さらに7世紀の中ごろ、藤原鎌足が百済救援のため豊前国仲津郡まで来た折、霊夢のお告げを受けて西寒多神社に参拝。老巧化した社殿を修築し、太刀一振りと八幡舞面を奉納した。貞観10年(869)、西寒多神社は朝廷から従五位下の神階が授けられ、延喜5年(905)に勅命により編纂された延喜式神名帳で式内大社とされた。 以後、在地の有力武将の信仰あつく、大友家初代能直を初めとする歴代大友氏の尊崇を集め続けた。応永15年(1408)3月、大友家第十代の新世は尊崇のあまり社殿を山麓の現在の地に遷した。 江戸時代には、この地を領した延岡藩の牧野氏、次いで内藤氏の信仰厚く、たびたび神殿の改修修繕が行われ、藩士による燈篭などの寄進もあった。 明治4年(1871)4月、新たに設けられた社格制度で国幣中社に列格。昭和20年(1945)12月、社格制度の廃止に伴い別表神社となり、今日に至っている。 公式HP |
西寒多神社 西寒多神社 ささむたじんじや 大分市大字寒田。 旧国幣中社(現、別表神社)。古社として、また、豊後一の宮として崇敬を集めている。祭神は西寒多大神を主祭神として、天照皇大御神・伊弉諾尊・伊弉冉尊・月読尊・大直日神・神直日神・天思兼神を並び祀る。草創の鎮座年代は明らかでないにしても、『三代実録』に清和天皇貞観11年(869)3月22日の条に「豊後国无位西寒多神従五位下」とみえ、また「延喜式神名帳」(平安時代中期)には「大分郡一座西寒多神社」とあり、中でも記されている豊後国六座の内でも西寒多神社は最も重くもちいられ、その後「豊後国一の宮」とされる由縁である。鎮座の緑起を社記には、神功皇后が外征から凱旋の際、西寒多山に臨幸され、国家を叡覧されたが、そのとき証として一木の白旗を立てておかれた。当地の人々はこれを崇敬し、籬垣を結び皇威を拝した。後に応神天皇9年武内宿禰が筑紫下向の折、勅を奉じて西寒多山上に社祠を営んだ、としてこれを起源としている。例祭4月15日、特殊神事として、33年目ごとに祭神の神衣を新調し御納めする式年大祭としての御神衣祭が行われる。他に正月20日の百年祭等がある。神事芸能として豊後神楽(岩戸かぐら)がある。文化財として、神庫高床式校倉造りの神殿。文久2年(1862)につくられた単アーチ式石造橋「万年橋」。また、樹齢200年余りの「山藤」が県記念物となっており、5月には棚づくりしたこの老藤にみごとな花が咲き藤まつりが行われる。当社の変遷をみると、応永15年(1408)領主大友親世が崇敬篤く現在の社地に奉遷したのをはじめ、天和4年(1684)・享保6年(1721)・延享3年(1746)・宝暦10年(1760)の四回にわたって、当時の藩主の協力をもって社殿の造営や改築が行われたという。明治4年(1871)国幣中社に列格。以前は西寒田神社とされていたが、現在、西寒多神社としている。 神社辞典 |