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二百許りの石段の上に明治4年の石鳥居があり、それを入ると拝殿、神殿は洞窟にあり、現在はコンクリート造りとなつている。 古くからこの洞窟を神殿とされていたらしい。 祖母山上の上宮、麓に近い山中に下宮、穴森社、山麓に遙拝所という社殿があり、正式には三社殿を含めて一社であつた筈である。 |
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由緒 神代の頃より鎮座し、祖母山を御神体として山頂に石祠(上宮)を祀れり、孝徳天皇白雉2年(650)、当所に社殿を建立し、下宮と唱へ遥拝所とす。 続日本後紀には承和10年(843)、豊後国無位健男霜凝日子神奉授従五位下と。また、三代実録には元慶7年(883)、奉授正五位下と記され、平安朝初期より京都にその存在を明にしていた。又、当社別称嫗岳大明神は平家物語、源平盛衰記に伝説として記載されている。 社号は嫗岳大明神とも鵜羽明神又祖母山大明神とも唱へられていた。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
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建男霜凝日子神社 当神社の主祭神は祖母山という高山を神格化した神と考えられている。 古代人は秋から初冬の甲霜や春の晩霜(おそじも)が凝集して、作物や草木に被害を与えたりする霜を司(つかさど)る神、また、風雨を司る神など、天候の守護神として、神格化した高山神である祖母山を考えたようである。 県内各地に、祖母山祭という風よけ祭をし、風害を鎮めてもらう信仰が広く見られる。そして、祖母山祭の日は朝露を落としてはならないという所が多い。 信仰の拠所(よりどころ)として、祖母山の山頂に石伺(せきし)を祀(まつ)って上宮とし、山麓(さんろく)の神原に下宮を祀ったのは自然の成り行きだった。下宮の創祠は651(白雉2)年とされている。 下宮の神原から遠い地方では、祖母山を遠望できる高所に遥拝(ようはい)所を設けている所がある。遺跡の残っている例として、荻町の南河内字野鹿や新藤の字浄土をはじめ数カ所が知られており、上述の祖母山祭とともに当神杜の信仰地域の広さを物語っている。 江戸時代、岡藩主中川氏は、当神社に神領として中角組辻原村の内で、水田一石五斗を寄進している(『地力温故集』)が、下宮の杜殿は朽ちたままで再建されなかったため、中川氏の紋所が使用されていたか、否かは不明である。現在の岩窟(がんくつ)内の下宮の杜殿は1977(昭和52)年に再建されたものである。 近世になって下宮の東隣に稲荷社が祀られ、参道を共有することになったため、石段の途中に赤い稲荷鳥居が建てられている。 なお、当神社下宮の近くに神宮寺と呼ばれる古い字名を持つ地があり、下宮の前を流れる神原川に架かる橋を神宮寺橋と称している。 そして、対岸に無住の薬師堂が一宇見られる。 神宮寺の地名と薬師堂は、あるいは健男霜凝日子神社の神宮寺の名残かとも考えられている。史料的な裏付けは得られていないが。 祭礼は9月23日で、白熊(はぐま)と獅子(しし)がお供をするが、次回に紹介する穴森神社の白熊・獅子とともに、それぞれ神輿(みこし)のお供をして、当神杜遥拝所の神庭で盛大に奉納される。 大分県地力史研究会常任委員・佐藤満洋 |
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建男霜凝日子神社 当社は上宮、下宮、遥拝所ありて、上宮は神代より祖母山頂に鎮座し、健男霜凝日子神を奉祀す。下宮は当所岩窟内にありて、白雉2年社殿を建立す。中古豊玉姫命、彦五瀬命を配祭せり。 明治12年11月県社に列せらる。 晴雨風雪等天候の守護神として近郷に信仰篤し。 中古正一位嫗嶽稲荷大明神として遠近の信仰篤かりしも社殿無く崇敬者の願意に従い昭和52年12月社殿を建立す。 社頭石碑 |
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建男霜凝日子神社 創建年代詳ならすと雖も、神名帳考証に云、「建男霜凝日子神社、大八洲霊、古事記云、波邇夜須毘古神、大和國健土安神社、日本紀云、処々小島皆是潮沫凝成者矣、按霜輿島言通、霜凝日子者洲壌之霊乎」と見え、神社覈録に云、建男霜凝は多祁袁志毛呉利と訓べし、日子は假字也、祭神明か也(比盗_も相殿に坐すべし)嫗嶽山に在す、嫗嶽明神と称す、今上宮下宮二所に奉祀す。神位、続日本後紀、承和10年9月甲辰、無位建男霜凝並比盗_奉授從五位下、三代実録、元慶7年9月2日乙丑、授豊後國從五位上建雄霜起神正五位下とあり、神祇志料に云、建男霜凝子神社、今大田郷井手上村神原山の嫗嶽にあり、嫗嶽大明神と云、建男霜凝日子及比盗_を祀る(按、豊後国志云、彦五瀬命、豊玉比当スを祭ると云へり、然れども文書の他に徴する者なきを以て、其果して然るや否を決め難しと雖も、其日子比涛神を祭る事、続日本後紀と自ら符合るに似たり、故今附て考に備ふ云々と見え、共に直入郡式の小社に列せり、社記に依れば、孝徳天皇御宇白雉2年の艸創なりと云」、又豊後國志に「在入田郷神原村山中、延喜神祇式曰、健男霜凝日子神社即是、以豊玉媛命、配祀彦五瀬尊、爲嫗嶽神、故称嫗嶽明神、孝徳天皇白錐2年所創、続日本後紀曰、承和10年9月甲辰無位健男霜凝日古並比盗_、奉授日從五位下、三代実録元慶7年9月2日乙丑、授豊后國從五位上健男霜起神正五位下、其爲山、素翠■蔚云々、巨岩窟中、有祠、嫗嶽本祠也、祠傍有路、達嫗嶽之嶺、々有一石祠、后世所造、天正中廃、寛永中再修、里人以称上宮、以本祠爲下宮、又下隔一渓、曰波具合村有叢祠、名穴森、昔者有巨蛇潜焉、平語、盛衰記、以爲嫗嶽明神誤矣、豊以淫神事、涜明神徳哉」 と云へり、而して亀山随筆にも「此吐白雉2年創造の由棟札に明かなり、又白雉の旧材今も残れり、比梼ミは下宮の御神五瀬尊の御組母神豊玉姫を祀る、故に神を比盗_と申し山を嫗嶽と云、と見え、而して神徳の顯著なるは「此社の神宝に鰐口あり、銘に永和4年正月吉辰、願主神孫日向國臼杵郡三田井小太郎十三歳敬白」とあるを以て知るぺし、又亀出随筆に、神田一段二畝は領主中川家より寄附し、神官相馬氏なりとあるを以て、如何に士民崇敬の厚きかを察すべし、地名辞書に云く、 「嫗嶽神社、神祇志料は以て霜凝日子神社に充つ、或は云此山即ち高千穂峯なり」、 と云ひ、かくて豊后國志に、 「按嫗嶽を豊玉媛を祀ると云、其所以たきに非ず、此山九州の大嶽にして臼杵の高千穂とも称す、降臨の霊跡を伝へ豊玉媛を祀れる歟、而して豊後國志肥後志並此祠を以て延喜式霜凝日古神となす、男女の相異あり、続紀に拠れば本来古比涛神鎮座し天孫に坐しますと、推想すれば火々出見尊、並豊玉媛命なるべし、一書彦五瀬命となすは、嶺南に五固川あるに附会せるもののみ、最も洞察を要す」 と云へり、記して後考に備ふ、先是文禄3年中川秀成入封以後崇敬も厚く、数次社殿を修築し該て神領若干を寄附し、維新の際に迫るまで以て恒例とす、明治6年郷社に列し、同12年縣社昇格す。 社殿は本殿・幣殿、拝殿、神楽殿、渡殿、社務所等にして、境内311坪(官有地第一種)あり、老木森々社域神厳なりと云ふ。 明治神社誌料 |