『延喜式』備前国 児島郡「鴨神社」に比定される式内社(小社)の論社。 当社はもとは現社地より5町ほど東方の山頂に鎮座し、いずれの頃か、字摩奥谷という所に遷座した。その後、江戸時代中期の宝暦10年(1759年)、現在地に奉遷した。 |
加茂神社 当神社の創建年月不詳。中世は加茂善児宮または善児宮といったが、明治初年旧号に復した。一説に鴨神社は当社であるというが、何等証するものがない。以前は現社地より五町許り東方の山頂の御鎮座であったが、何れの頃か字摩奥谷という所に移転したが、宝暦十庚辰年更に現地に奉遷したという。 岡山県神社庁 |
加茂神社 創祀年代は不詳。平安時代、由加山の鬼である阿黒羅王(阿久良王)は、東郷太郎、加茂二郎、稗田三郎という3人の子分を連れていた。 鬼と3人の子分は、坂上田村麻呂と七日七夜に渡る激しい戦いの末、敗れ、その死の間際にこれまでの悪事を悔い、瑜伽大権現の神使となり人々を助けたいと改心した。 息を引き取った阿久良王は田村麻呂に首を斬られると、金色の光を放って飛び散り、75匹の白狐になって瑜伽大権現の神使として人々を助けるようになった。 3人の子分の詳しいその後は不明だが、東郷太郎・加茂次郎・西郷三郎(稗田三郎)という3人の名で備前宇喜多氏の系譜に現れる。 それによれば、宇喜多氏の支流・分家である東郷氏・加茂氏・西郷氏(稗田氏)、さらに三宅氏の祖ということになる。 そのうち、加茂二郎を祀るのが当社だという。当地は古くは鴨郷と呼ばれていた。そのため、当社は加茂善児宮・善児宮と称された。 今でも玉野市荘内地区を抜ける道沿いに「善児宮」と刻まれた道標がある。 神社と古事記 |