石門別神社
いわとわけじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】石門別神社 備前国 御野郡鎮座
   【延喜式神名帳】石門別神社 備前国 御野郡鎮座
           備前国御野郡には石門別神社が2社記載されている

   【現社名】石門別神社
   【住所】岡山県岡山市北区大供表町300
       北緯34度39分8秒、東経133度54分55秒
   【祭神】天津石門別命
   【例祭】10月12-13日 秋季例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創紀年代、鎮座の次第不詳
       延喜6年(906)正月現在の場所へ遷座
       明治16年造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは御野郡伊福郷の大安寺山に祀られていた
        延喜6年(906)正月現在の場所へ遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「春日宮」「戸隠宮」と称していた
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       幣殿・釣殿・拝殿・随神門・社務所

   【境内社】

御野郡伊福郷の大安寺山に祀られていたのを延喜6年(906)正月に現在の場所へ遷座したという。
この神社ははやく廃絶してその所在場所は久しく不明であつたと思われる。そして江戸中期頃になつて大供村の戸隠神社が式内石門別神社に比定されることになつたようである。
旧社地は大安寺村、三門村ともいう。


由緒

創祀年代、鎮座の事情不詳。『神社明細帳』は勧請年記不詳としながら、御野郡伊福郷の大安寺山に祀られていたのを延喜6年(906年)正月に現在の場所へ遷座したとの申し傅へのあることを記している。『備前国式内書考録』(明治初年)が記す様に、この神社ははやく廃絶してその所在場所は久しく不明であったと思われる。そして江戸中期頃になって大供村の戸隠神社が式内石門別神社に比定されることになったようである。例えば、元文4年(1739年)に完成した『備陽国誌』には『戸隠宮 大供村。所祭 手力雄命。延喜式に御野郡石門別神社と云う当社ならんかと云へり』と見える。しかし、その後寛政年間に岡山藩士 大澤惟貞によって編纂された『吉備温故秘録』では、式内石門別神社は大安寺村の項に記されてをり、また明治3年の『神社明細帳』でもこの神社は未だ『戸隱宮』と記されていることなどを考えると、江戸時代中期頃から式内石門別神社に比定されながらも明治初年まではなお決定的なものとはならなかった様子がうかがわれる。
『特選神社名牒』いくつかの説を並記しながら「大供村戸隠宮を備陽国誌の神明帳に御野郡石門神社とあるは当社ならんかとみえ貞享元年神社書上帳に戸隠宮とあり社司の記録に備前国御野郡大供村鎮座戸隠宮奉祭手力雄命也とあるもの證とするに足れり故今之に従う」としている。なおこの神社に神宮寺が置かれたことを『御國中神社略記』が記してをり(昭和十三年『岡山市史』第五巻)、『吉備温故秘録』は廃寺の項に「日蓮宗安立山大福寺 大供村・本寺蓮昌寺」と記している。大福寺は岡山藩の寛文期の社寺整理の際に廃寺とされたもので、『撮要録』(文政6年)はこの時廃寺となった寺についての寶永4年(1707年)の調査資料をあげている。それには「住持還俗改名清左衛門後有罪追放、寺株田地賜、清左衛門追放後賜磨屋町光珍寺、理斎大供村へ引越孫權六續之、本尊なし」とある。社領について『備前國式内書上録』(明治初年)は寛保年間の社傳(現在その行方は不明)に記された古老の申し傳へとして「當社往古封戸神田許多有之所ニ亂世之比度々減シ、浮田泉茘直家、同秀家之御代、天正文禄の比は社領纔二拾五石残れり、是亦慶長之始召放れける由」と記すが、確認できない。
江戸時代の地誌類、明治初年の諸資料にはこの神社の社領は記載されていない。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




石門別神社

この神社は、国鉄・山陽本線岡山駅から南々西へ約2Km、岡山市農業脇同組合本所から南西に200mほど入った、岡山市立鹿川保育園のすぐ南方の、岡山市大供表町3番9号にある。もと村社。
式内杜の石門別神社は、早くから廃絶していたようで、その場所は長い問不明であったが、江戸時代の中期になると、『備陽国誌』に「神名帳に御野郡石門別神社とあるのは、当社ならんか」と、大供村の戸隠宮を式内社ではないかと記している。この戸隠宮は、明治初年に現社名に改号されたが、江戸時代初期には春日宮と呼ばれ、寛文年問(1661〜1673)に戸隠宮と改号していたもので、地元では今でもこの神社を“とかくっさん”(戸隠様)と、親しみを込めて呼んでいる。
祭神は、江戸時代には手力雄命とされていたが、現在では天津石門別命とされているところから、現社名に改号された時に現在の祭神名に変えられたものと考えられる。
社殿は、あまり広くない境内の東寄りに、南面して建てられており、本殿は、一間社、入り母屋流れ造り(唐破風向拝付き)・銅板葺き(もとは桧皮葺き)で、現存する棟札から、明治16年(1883)に建て替えられたことが分かる。
境内の末社には、思兼神社、木野山神社、金刀比羅宮、塞宋神社、稲荷神社、幸神社がある。



石門別神社

 当社は御野郡伊福郷の大安寺山に祀られており、延喜6年(906)正月に現在の場所へ遷座したと伝えられている。
 『備前国式内書考録』(明治初年)が記す様に、この神社は、はやく廃絶してその所在場所は久しく不明であったと思われる。そして江戸中期頃になって大供村の戸隠神社が式内石門別神社に比定されることになったようである。 例えば、元文4年(1739)に完成した『備陽国誌』には『戸隠宮 大供村。所祭 手力雄命。延喜式に御野郡石門別神社と云う当社ならんかと云へり』と見える。
 しかし、その後寛政年間に岡山藩士大澤惟貞によって編纂された『吉備温故秘録』では、式内石門別神社は大安寺村の項に記されてをり、また明治3年の『神社明細帳』でもこの神社は未だ『戸隱宮』と記されていることなどを考えると、江戸時代中期頃から式内石門別神社に比定されながらも明治初年まではなお決定的なものとはならなかった様子がうかがわれる。『特選神社名牒』にいくつかの説を並記しながら「大供村戸隠宮を備陽国誌の神明帳に御野郡石門神社とあるは当社ならんかとみえ貞享元年神社書上帳に戸隠宮とあり社司の記録に備前国御野郡大供村鎮座戸隠宮奉祭手力雄命也とあるもの證とするに足れり故今之に従う」としている。なおこの神社に神宮寺が置かれたことを『御國中神社略記』が記してをり(昭和13年『岡山市史』第5巻)、『吉備温故秘録』は廃寺の項に「日蓮宗安立山大福寺 大供村・本寺蓮昌寺」と記している。大福寺は岡山藩の寛文期の社寺整理の際に廃寺とされたもので、『撮要録』(文政6年)はこの時廃寺となった寺についての寶永4年(1707)の調査資料をあげている。それには「住持還俗改名清左衛門後有罪追放、寺株田地賜、清左衛門追放後賜磨屋町光珍寺、理斎大供村へ引越孫權六續之、本尊なし」とある。
 社領について『備前國式内書上録』(明治初年)は寛保年間の社伝(現在その行方は不明)に記された古老の申し伝へとして「當社往古封戸神田許多有之所ニ亂世之比度々減シ、浮田泉茘直家、同秀家之御代、天正文禄の比は社領纔25石残れり、是亦慶長之始召放れける由」と記すが、確認できない。江戸時代の地誌類、明治初年の諸資料にはこの神社の社領は記載されていない。
 『荘園資料』などによると、石門別神社の鎮座する大供付近は藤原氏の氏長者に属する殿下渡領となった鹿田荘の荘園に含まれていたと考えられている。

岡山県神社庁



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