国神社
くにじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】国神社 備前国 御野郡鎮座

   【現社名】国神社
   【住所】岡山県岡山市北区三門中町5-1
       北緯34度40分11秒、東経133度54分12秒
   【祭神】大国主命 事代主命 (配祀)仲哀天皇 応神天皇 神功皇后
   【例祭】10月5-6日 秋季例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       江戸中期頃廃祠となつた
       後下伊福村八幡宮に相殿として祀られていた
       明治初年改称
       明治36年3月火災焼失

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは三門村の東高御堂の畑の中に鎮座
        後下伊福村八幡宮に相殿として遷(現在地)

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造コンクリート
       釣殿・幣殿・拝殿・随神門

   【境内社】天満宮

高い山の頂上にあり。
宮司の話では、学会では古墳の上と言っているが、本殿移転の時地を掘ったが古墳はなかった。この地は旧潮地の小島ではなかったか。祭のとき以外は禁足地ではなかったか。この地は「岩井」といったが「祝う」から出たのでは。
元の宮地は三門村の東高御堂という地の畑の中の石「大国石」の付近であったという。


国神社

この神社は、国鉄・吉備線三門駅から東北東へ約400mの国守山という小山の頂上の、岡山市三門中町5番1号にある。もと村社。現左は“くに”神社と呼ばれている。
式内社の国神杜は、江戸時代初期には下伊福(村)三門にあったことが諸書の記述から伺えるが、その後廃祀となったようで、元文4年(1739)編さんの『備陽国誌』には、「国神社、三門村、所祭大国魂神、何れの時にか廃して、今社地のみ残れり」となっている。
明治初年になって、下伊福村の氏神・八幡宮の相殿として国神社が再興され、この八幡宮がまもなく国神社と改号されて、現在に至っている。
祭神は、現在は大国主命を主神として、素盞鳴命・仲哀天皇・応神天皇・神功皇后を配祀している。主神については、古い諸本がすべて大国魂命(饒速日尊=大物主命の別称)としているところから、明治初年に現社名に改号された時に変えられたものと思われる。仲哀天皇など三柱は、もとの八幡宮に祭られていたものである。
社殿は、国守山の山頂に南面しており、本殿は、昭和31年(1956)に鉄筋コンクリート造りに改築されたもので、正面三間・側面二間、神明造り・銅板葺きのものが、竪穴式古填の上に建てられている。拝殿までに百六十段の石段があり、九十五段目に随神門がある。
境内の末杜には、稲荷神社、荒神社、箆取神社、天満宮がある。

社頭掲示板



国神社

創建は貞観2年(860年)で、神階は従四位下である。延喜式記載の式内社で、国司祈年所祭神社である。上古には名称から、「クニノカミノヤシロ」と訓読したか、国魂の斎場であったか、或は国津神の降臨せられる斎庭であったかと推察できる。備前藩の地誌「備陽国誌」に、国神社、三門村所祭、大国魂神とある。慶長年間(1596年〜1615年)に再建。社領は二石六斗二升である。寛文年間(1661年〜1673年)に造営。宝暦元年(1751年)に再建。明和3年(1766年)に国守八幡宮を合祀した。この間備前藩から用材、銀札、制札等の寄進があった。明治36年に社殿が炎上し、社宝、文書を焼失した。翌37年に再建。昭和29年の台風で倒壊、翌30年に鉄筋コンクリート神明造りの本殿を再建した。表参道の鳥居、石階段は元禄15年(1702年)、一対の石灯籠は文政3年(1820年)の築造である。石段は昭和52年に拡幅し、近郷に比類のない立派な堂々とした石段となった。氏子区域は岩井、島田、奉還町、富田町、西崎等39町である。氏子数も年々増加し、縁結ぴ神、医薬、商工業神としての崇敬厚く、参詣者は増加している。また岡山市街の眺望は絶佳である。

岡山県神社庁



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