天照大神及草薙剣が一時遷座した「吉備国名方浜」に、その縁によつて祀られたのが伊勢神社であると云う。 名方浜を旧御野郡浜野村(現在、岡山市浜野)に比定し、浜野村の内宮(祭神は伊勢内宮に同じ)を鎭座地として、伊勢神社を外宮とする説もある。 |
由緒 天照大神は、もと、皇居の内にお祀りされていましたが、第十代崇神天皇の御代に至り、「神威を畏れたまひて共に住みたまふに安からず。」として、皇居と神居とが別けられることになりました。そこで、天照大神は、崇神天皇の皇女豊鍬入姫命を御杖代として、大和国笠縫邑に遷し祭られ、やがて、丹波国・倭国・木ノ国を経て、崇神天皇54年(紀元前44年)に、吉備国名方浜へ御遷幸になられました。まさに、今より二千余年にも及ぶ昔のことで、これが、現在岡山市浜野の地に鎮座する内宮の創始であります。そして、その後、天照大神は、さらに大和を中心にいろいろな地方を経て、第11代垂仁天皇26年(紀元前4年)に、伊勢国度会郡宇治の里へ御遷幸になられ、その地を永遠の宮地として御鎮座になることと定まりました。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
内宮 内宮 1.御祭神 天照大神.倭姫命・大己貴命(大国主命) 1.御創建 当社は、崇神天皇54年(紀元前44年)に皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめみこと)を御杖代(みつえしろ)として御創建になった由緒ある御社であり伊勢神宮御創建にさきだつこと40年、日本で最も古い神社の一つてす 1.由来 はじめ、宮中に奉斎されでいた天照大神は崇神天皇の御代、御神慮によって諸処に御遷幸になりました、当社は、この御遷幸伝承地の御社の一つで、古名を吉備国名方浜宮(ながたのはまのみや)と言います。 1.恒例祭典 歳旦祭(1月1日)・春季例祭(5月17日) 夏季例祭(7月11日)・秋季例祭(10月16−17日) 七五三祝祭(11月15日) 1.境内神社 稲荷神社・天満宮 社頭掲示板 |
内宮 岡山空襲による被災建築物説明板 内宮(ないくう) 内宮は、天照大神を祭神として、天正9年(1581)に現在の地に遷座されたと伝えられています。 その後、大正2年(1913)には、野々宮に祀(まつ)られていた倭姫命(やまとひめのみこと)と、日吉神社(ひよしじんじゃ)に祀(まっ)られていた大己貴命(おおなむちのみこと)が合祀されました。 境内(けいだい)には、江戸時代に建立(こんりゅう)された本殿(ほんでん)、幣殿(へいでん)、拝殿(はいでん)、表門(おもてもん)などがありましたが、昭和20年(1945)6月29日未明の岡山空襲(くうしゅう)により、浜野にも焼夷弾(しょういだん)が投下され、内宮(ないくう)の建物は、表門(おもてもん)と境内(けいだい)神社二社(稲荷神社(いなりじんじゃ)・天満宮(てんまんぐう))を残して全て焼失しました。 戦後、本殿、幣殿、拝殿が再建されましたが、昭和初期に造られた本殿の玉垣には、空襲による焼け跡や、破損した跡が現在も残っており、その傷跡が空襲の激しさを今に伝えています。 平成23年3月岡山市 社頭掲示板 |
内宮 当社の御祭神である天照大神は、かつて皇居の内にまつられていたが、やがて第10代崇神天皇の御代に皇居と神居とが別けられることになり、まず倭の笠縫邑に遷しまつられ、その後、丹波国(京都)、倭国(奈良)、木国(和歌山)、吉備国(岡山)を経て再び倭国へ、そしてさらに伊賀国(三重)、淡海国(滋賀)、美濃国(岐阜)、尾張国(愛知)を経て第11代垂仁天皇の26年(紀元前4年)に伊勢国(三重)へ御遷幸になられ、その地を永遠の宮地(現在の伊勢神宮)として鎮座された。 天照大御神が皇居を出られてからこの伊勢に至るまでの御遷幸経路については、日本書紀や皇大神宮儀式帳、倭姫命世記などの古文書に見られる。 中でも神道5部書の1つに数えられる倭姫命世記の中には「垂仁天皇54年丁丑、吉備国名方浜宮に遷し4年斎奉る」と記されており、これが当社「内宮」の創始となっている。また、江戸時代に土肥経平が著した寸簸の塵(きびのちり 吉備の地理の意)という書物の中に「外宮は出石郡にあり。内宮は鹿田庄浜野村にありて式内の神なり。皇大神宮即ち是なり。」とあり、その当時の様子が詳しく記されている。 当社の、創祀は伊勢の内宮鎮座の40年前にあたる。また大正2年には、付近の野々宮と日吉神社が当社に合祀された。 岡山県神社庁 |