伊勢神社
いせじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】伊勢神社 備前国 御野郡鎮座

   【現社名】伊勢神社
   【住所】岡山県岡山市北区番町2-11-20
       北緯34度40分29秒、東経133度55分44秒
   【祭神】天照皇大神 豊受大神 (配祀)栲幡千千姫命
   【例祭】10月17日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】崇神天皇54年倭姫命天照大神を吉備国に遷
       延宝2年(1674)岡山藩社領寄進
       宝暦7年(1757)焼失
       明治6年郷社
       明治15年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】崇神天皇54年天照大神の神霊を備前国名方浜宮に祀
        その後現在地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「伊勢宮」と称していた
   【社殿】本殿神明造檜皮葺
       幣殿・釣殿・拝殿・神樂所・社務所

   【境内社】

『倭姫命世記』に、「御間城入彦五十瓊殖天皇(第10代崇神天皇)即位54年の丁丑の年に、皇女・倭姫が天照大神の神霊を備前国名方浜宮に移し、4年間この宮で斎き奉った」とあるのがこの神社のいわれで、備前国名方浜というのは後の中田村(現・岡山市賞田)であって、初め中田に鎮座していたが、その後現在地へ移されたという。


由緒

伊勢神社(通称伊勢宮)は、第10代崇神天皇の御代皇女豊鋤入姫命の御創建になり、二千有余年の歴史をもち、式内社として栄え、室町時代の頃迄は備前岡山の氏神として崇敬篤く、境内地も現在の弘西学区全域に及んでいた。その後、他の神社も御創建され、人々も移住し、城下町が形成され、現在の氏子地域が出来上ったと思われる。安土桃山時代以後は、宇喜多、池田両藩主の崇敬殊に篤く、池田光政公以後明治維新迄備前藩寺社領としては最高の三百石を賜わり、伊勢宮神官を以って備前国神職総頭の職を拝命され、備前藩又は池田家の祭事いっさいが伊勢宮神官の手によって執り行われ、現在も続いている備前の国で最も由緒のあるお社である。又、伊勢宮には、三百年前から「御神事」という祭事が執り行われている。この御神事は、文禄元年宇喜多秀家が秀吉の命を受け、「征韓の役」の出陣に先立ち具足甲胄に身を固め、藩主以下総勢行列を整え、藩旗、弓、槍、鉄砲等を持ち、伊勢宮に戦勝祈願に詣でた形を後世神事として祭儀のなかにとり入れて行われたのが起源である。明治初年の頃迄は神馬、弓、槍、具足甲胄を身につけ執り行われていた。伊勢宮の氏子は、武士と町人が半々であったため、御神事は主に商家である小畑町、上出石町、中出石町、下出石町(下出石町は現在岡山神社の氏子である)の四町内が順番に奉仕していた。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




伊勢神社

伊勢神社略記 一、御祭神 天照皇大神 豊受大神 拷幡千々姫命
一、御鎮座 崇神天皇即位54年
一、御社号 吉備国名方濱之宮
延喜式神名帳 伊勢神社
備前国神名帳 伊勢大名神
撮要録    伊勢宮■
明治15年 県社伊勢神社
伊勢神社(通称伊勢宮)は、第10代崇神天皇の御代皇女豊鋤入姫命の御創建になり、二千有余年の歴吏をもち、式内社として栄え、室町時代の頃迄は備前岡山の氏神として崇敬篤く、境内地も現在の弘西学区全域に及んでいた。その後、他の神社も御創建.され、人々も移住し、城下町が形成され、現在の氏子地域が出来上つたと思われる。
安土桃山時代以後は、宇喜多、池田両藩主の崇敬殊に篤く、池田光政公以後明治維新迄備前藩寺社領としては最高の三百石を賜わり、伊勢宮神を以って備前国神職総頭の職を拝命され、備前藩又は池田家の祭事いっさいが伊勢宮神官の手によって執り行われ、現在も続いている備前の国で最も由緒のあるお社である。
又、伊勢宮には、三百年前から「御神事」という祭事が執り行われている。この御神事は、文禄元年宇喜田秀家が秀吉の命を受け、「征韓の役」の出陣に先立ち具足甲胃に身を固め、藩主以下総勢行列を整え、藩旗、弓、槍、鉄砲等を持ち、伊勢宮に戦勝祈願に詣でた形を後世神事として祭儀のなかにとり入れて行われたのが起源である。明治初年の頃迄は神馬、弓、槍、具足甲胃を身につけ執り行われていた。
伊勢宮の氏子は、武士と町人が半々であったため、御神事は主に商家である小畑町、上出石町、中出石町、下出石町(下出石町は現在岡山神社の氏子である)の四町内が順番に奉仕していた。
又、備前太鼓唄、備前獅子舞は伊勢宮氏子より発祥し、現在も10月16日、17日の両日、伊勢宮拝殿にて正調の獅子舞を奉納している。 以下明治初年頃迄の行列次第と現在の行列次第を記す。
○旧行列次第
先導-先導太鼓-笛、鉦-獅子-猿田彦-神社旗-騎馬神官-鉾-真榊-楽人-神輿-騎馬神官-神馬-弓槍-甲冑武者-神社総代-子供-山車
○現在の行列次第
先導-大麻-弓張提灯-猿田彦-神社旗-獅子-子供真榊-鉾-真榊-太鼓-笛、鉦-供奉員

由緒書



伊勢神社

伊勢神社(通称伊勢宮)は、第10代崇神天皇の御代皇女豊鋤入姫命の御創建になり、二千有余年の歴史をもち、式内社として栄え、室町時代の頃迄は備前岡山の氏神として崇敬篤く、境内地も現在の弘西学区全域に及んでいた。その後、他の神社も御創建され、人々も移住し、城下町が形成され、現在の氏子地域が出来上ったと思われる。安土桃山時代以後は、宇喜多、池田両藩主の崇敬殊に篤く、池田光政公以後明治維新迄備前藩寺社領としては最高の三百石を賜わり、伊勢宮神官を以って備前国神職総頭の職を拝命され、備前藩又は池田家の祭事いっさいが伊勢宮神官の手によって執り行われ、現在も続いている備前の国で最も由緒のあるお社である。又、伊勢宮には、三百年前から「御神事」という祭事が執り行われている。この御神事は、文禄元年宇喜多秀家が秀吉の命を受け、「征韓の役」の出陣に先立ち具足甲胄に身を固め、藩主以下総勢行列を整え、藩旗、弓、槍、鉄砲等を持ち、伊勢宮に戦勝祈願に詣でた形を後世神事として祭儀のなかにとり入れて行われたのが起源である。明治初年の頃迄は神馬、弓、槍、具足甲胄を身につけ執り行われていた。伊勢宮の氏子は、武士と町人が半々であったため、御神事は主に商家である小畑町、上出石町、中出石町、下出石町(下出石町は現在岡山神社の氏子である)の四町内が順番に奉仕していた。

社頭掲示板



伊勢神社

この神社は、国鉄・山陽本線岡山駅から北々東へ約1.5Km、国鉄・津山線法界院駅からは南へ約1Km、山陽相互銀行本店から東へ約200mのところの、岡山市番町2丁目11番20号にある。もと県社。
社伝によれば、『倭姫命世記』に、「御間城入彦五十瓊殖天皇(第10代崇神天皇)即位54年の丁丑の年に、皇女・倭姫が天照大神の神霊を備前国名方浜宮に移し、4年問この宮で斎き奉った」とあるのがこの神社のいわれで、備前国名方浜というのは後の中田村(現・岡山市賞田)であって、初め中田に鎮座していたが、その後現在地へ移されたという。
祭神は、天照大神を主神として、豊受大神と拷幡千々姫神を相殿に祭るとしている。
この神社がある付近一帯は、江戸時代に何回も火災に会っており、この神社の社殿も何度か焼失したという。比校的新しい火災では、宝暦7年(1757)の多五郎火事と、天明4年(1784)の野々村火事と呼ばれるものがあって、野々村火事のときは社務所だけが災難に会い、社殿は無事だったと伝えられている。従って、現存する主要な建物は宝暦7年以後の建築とみられるわけで、東向きの本殿は、一間社、神明造り・桧皮葺きの簡素なものである。
境内の末社は数が多く、稲荷神杜、天満宮のほか、熱田神宮、斎宮、伊雑宮、春日神杜、荒神杜、輿玉神社、鈿女神杜、戸隠神社、今村神社、幸延神社など十九社が祭られている。



伊勢神社

当社は、第10代崇神天皇の御代皇女豊鋤入姫命が御創建になり、元伊勢として二千有余年の歴史をもち、式内社として栄え、室町時代の頃迄は備前岡山の氏神として崇敬篤く、境内地も現在の弘西学区全域に及んでいた。
 その後、他の神社も創建され、人々も移住し、城下町が形成され、現在の氏子地域が出来上った。
 安土桃山時代以後は、宇喜多、池田両藩主の崇敬殊に篤く、池田光政公以後明治維新まで備前藩寺社領としては最高の300石を賜わり、伊勢宮神官を以って備前国神職総頭の職を拝命され、備前藩又は池田家の祭事一切が伊勢宮神官の手によって執り行われ、現在も続いている備前の国で最も由緒のある神社である。
 また、伊勢宮には、300年前から「御神事」という祭事が執り行われている。この御神事は、文禄元年宇喜多秀家が秀吉の命を受け、「征韓の役」の出陣に先立ち具足甲胄に身を固め、藩主以下総勢が行列を整え、藩旗、弓、槍、鉄砲等を持ち、伊勢宮に戦勝祈願に詣でた形を後世神事として祭儀の中に取り入れて行われたのが起源である。
 明治初年の頃までは、神馬、弓、槍、具足甲胄を身につけ執り行われていた。伊勢宮の氏子は、武士と町人が半々であったため、御神事は主に商家である小畑町、上出石町、中出石町、下出石町(下出石町は現在岡山神社の氏子である)の四町内が順番に奉仕していた。

岡山県神社庁



伊勢神社略記

御祭神 天照皇大神 豊受大神 栲幡千々姫命 御鎮座 第十代崇神天皇即位54年 御社号 伊勢神社 旧吉備国名方濱宮 由緒沿革 伊勢神社(通称伊勢宮)に天照大御神が御鎮座になりました起源は、「倭姫命世紀」という書によりますと、
「第十代崇神天皇即位6年9月、「天照大御神」及「草薙の剣」を朝廷より倭国笠縫邑に遷し、皇女豊鋤入姫命をして斎奉りける」とあります。
それまで天照大御神は天皇の大殿の内にお祀りされていましたが、崇神天皇はその神勢を畏れて、いわゆる「同床共殿」に耐えがたく思われ、はじめて大殿の内より出し奉って皇女豊鋤入姫命にその御神霊を託し笠縫邑にお遷ししてお祀り申し上げたという意味です。
天照大御神が、現在の伊勢神宮(三重県伊勢市)の地に御鎮座になります迄には、89年間にわたり諸国を次々と御遷宮なさいました。
倭国笠縫邑に34年間、丹波国吉佐宮に4年間、倭国伊豆加志本宮に8年間、木国(紀伊)奈久佐濱宮に3年間、吉備国名方浜宮に4年間、倭国三輪の御室嶺上宮に2年間御鎮座になりました。 その後、倭姫命に託され11箇所の宮々を経て垂仁天皇26年に伊勢国度曾の宮(現在の伊勢神宮)に脚鎮座になりました。
即ち、豊鋤入姫命の御遷幸のなか、「天照大御神」と「草薙の剣」が吉備国名方浜宮に4年間御鎮座になりましたのがこの伊勢神社であり、伊勢神宮に御鎮座になる38年前にお祀りされたことになります。
爾来、伊勢神宮の元宮として祭祀を続けここに二千有余年となる備前で最も古い社歴の神社です。
乎安時代には「延喜式神名帳」(西暦927年撰上)に記載されたいわゆる「式内社」の一社として栄え、室町時代まで備前岡山の総氏神として篤く崇敬されました。
安土桃山時代から江戸時代にかけては、宇喜多氏や池田氏より尊崇され特に池田家からは池田家側近崇敬社として寛永年間から明治堆新に至る迄、備前藩社寺領としては最高の三百石を賜り、伊勢宮社務職を以て備前神職総頭の職を拝命されておりました。
従って池田家の祭事一切は伊勢宮社務職の手によって執り行われ現在も続いております。
又、伊勢神社には三百年前から「御神事」という祭事が執り行われておりました。
この「御神事」は、文禄元年、宇喜多秀家が豊臣秀吉の命を受け「征韓の役」の出陣に先立ち具足甲冑に身を固め、藩主以下総勢行列を整え、藩旗、弓、槍、鉄砲等を持ち伊勢神社に戦勝祈願に詣でた形を後世神事として祭儀のなかにとり入れて行われたのが起源です。
伊勢神社の氏子は武士と町人が半々であったため、「御神事」は主に商家である小畑町、上出石町、中出石町、下出石町の四町内が順番に奉仕していました。
又、備前太鼓唄、備前獅子舞は伊勢神社氏子より発祥し、現在も10月16日、17日の両日、伊勢神社拝殿に於て正調の獅子舞を奉納しております。

社頭掲示板



備前国INDEXへ        TOPページへ



順悠社