元文4年(1739)に編纂された岡山藩の官撰地誌である『備陽国誌』は式内社尾針神社について「今廃りて何れの所という事をしらず」としている。 旧社地として@酒折宮(現岡山神社)A半田山B上伊福村の別所栗岡宮(現在地)の3説がある。 明治3年に岡山藩が作成した『神社明細帳』には御野郡上伊福村の内別所に栗岡宮があり、その相殿に尾針神社(祭神天火明命)があると記しており、その後まもなく栗岡宮が尾針神社と改称された。 栗岡宮は「栗岡大明神」と称し、現在地の南方の栗山と言う小高い所(現岡山県自治研修所)にあったとする説もある。 尾針神社の背後の台地に巨石群がある。古代の祭祀遺跡の磐境(イハサカ)または磐座(イハクラ)と考えられている。 |
尾針神社 この神社は、国鉄・山陽本線岡山駅から北西へ約2Km、県立岡山工業高等学校の北西約100mの、岡山市京山一丁日十番十三号の小高い丘の上にある。もと村社。 式内社の尾針神社の所布地は、江戸時代には不明で、酒折宮(現・岡山神社)の地とする説や半田山とするもの、または上伊福村別所の栗岡宮の地(現在地)など、三つの説があったようである。このうち栗岡宮は、相殿に尾針神社を祭っていたところから、明治初年になって現在の社名に改号された。 祭神は、天火明命(饒速日尊の別名)を主神として、大気都比売命が配祀されている。江戸時代には、尾綱根命とか日本武尊が祭神とされていたこともあるようである。 杜殿は、すべて昭和になってから再建されたもので、南面しており、昭和48年(1973)に改築された本殿は、正面三間・側面二間、神明造り・銅板葺き(もとは桧皮葺き)の荘重なもので、高い石壇の上にあって、周囲には透塀が巡らされている。 境内の末社には、稲荷神社(祭神・倉稲魂命)、若宮(祭神・天香山命)、荒神杜(祭神・素盞鳴命)、注連神社(祭神・天鈿女命)、木切宮、天満宮、日之神社などがある。 神社の背後の台地には、十個余りの巨石群があって、古代に祭祀が行われていた磐境または磐座の遺跡であろうと推定されている。 |
尾針神社 当社の創立の年代は詳らかではないが、醍醐天皇延喜5年(905)から編纂された「延喜式」の神名帳に登載(延喜式式内社)されている。 社殿背後の台地には高さ1〜2メートルの長大な巨石群あり、これらは天津磐境(あまついわさか)と言われ古代祭祀の遺跡である。 また、ご鎮座地一帯は、往古「吉備国御野郡伊福郷」と称され、伊福部連(尾張連の一族)の居住地で、その祖神「天火明命」を奉斎し、創祀したと言われている。延喜の制では小社に列せられ備前国26社の1社として最古の社である。延喜式神名帳に「備前国二十六座御野郡八座」の中に「尾針神社」とある。 江戸期 国主池田氏は父祖以来代々崇敬厚く社領5斗2升を献じて明治維新に及んだ。 往古尾針神社の南方に栗山と言う小高い所(現岡山県自治研修所)に神社があり「栗岡大明神」称したが、合祀して相殿とした。 昭和15年紀元2600年記念に本殿・幣殿・拝殿・瑞垣を改築した。 昭和46年第60回伊勢神宮遷宮記念事業として隋神門・境内末社・社務所の改築と境内地の整備を行った。 岡山県神社庁 |