式内社石門別神社は遅くとも江戸時代の前半期迄には廃絶してをり所在不明。寛永年間(1748-51)に式内社再興運動の中で、石神社または石神宮と言われていた社を式内社とした。 御野郡には式内社石門別神社が二社あつて、いつれが当社に当るのか判別できない。 |
石門別神社 石門別神社の由来 この神社は、近世には石神宮・石神社と呼ばれていたが、寛延3年(1750年)12月大守肥後守を中心とする 式内社再興運動が展開されたとき、この宮が古来から延喜式内社であり、祭神は従二位天津石門別神であることから、当時の国司が岡山平野に石門別神社と改号し、ここ田住と大供に祭られたと伝えられる。 天孫降臨にあたり天岩屋に神こもりし天照大神を、天児屋命が神楽を奏し、天鈿女命が舞楽をなし、 天津石門別神や手力男命などがおつれ申したと伝えられる。また、元明天皇が和銅5年(712年)大安麻呂に命じつくられた 我が国最古の古典「古事記」には、光華明彩・六合照徹と云われ、その御威光は広大無辺で宇宙万物を生成化育する御本源であらせられる大日霎貴別名天照大神が天孫降臨に際し、「天津石門別神など」の功績が記され、古くからの伝説にもされている。 神は、人間にとって超越的な存在とされるあるもので、宗教的信仰の対象として、原始時代から人々が何らかの不可知なものゝ存在に気づいたときに発する。 この氏神は、8世紀以前の時代から、地域の血縁・地縁的な集団の精神的統合と社会的連帯の強化の中心として、人々から鎮守さま(別名産土神)として信仰され、祭られて参りました。 人々は自己の神性をとり戻し(ご利益を蒙るの意)、社会生活の意義を確め、神威を畏こみ神の恵みを仰いで、神の御加護によって(神の顕現発揮という)生きることの喜びをかみしめ、明日の生産・生活に希望を力を得る源泉としてきました。 また、境内地の中には、武甕槌命を祭神とする石神と呼ばれる石及び「あしおうさん」と呼ばれる足の病を治して下さる石神のほか、末社として若宮・荒神社、注連神社、愛宕神社がある。 いづれも簡素な建物ながら、その時代その時代の地域住民の連帯意識の拠所として引継がれている。 こゝに由来を記して、あらたかな御神徳を偲ぶと共に、広く地域の方々の信仰の拠りどころにして戴きたいと念じます。 社頭掲示板 |
石門別神社 延喜式に石門別神社、本国総社神名帳に天津石門別神社、一宮左楽頭本に天津石門別神社と記してある式内の社である。創建年代は不詳である。 岡山県神社庁 |