大神神社
おおがじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大神神社4座 備前国 上道郡鎮座

   【現社名】大神神社
   【住所】岡山県岡山市中区四御神381
       北緯34度41分52秒、東経133度58分49秒
   【祭神】大物主神 大穴持神 三穗津姫神 少名日古那神
   【例祭】 10月第3土曜日 秋季大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年代不詳
       慶長年間(1596−1615)社領は石高31石2斗4升7合
       明治6年郷社に列格

   【関係氏族】
   【鎮座地】もと四御神の背後にある惣堂山の上に鎮座
        その後現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「土師宮」と称していた
   【公式HP】 大神神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・釣殿・拝殿・随身門

   【境内社】若宮・松尾御前神社・稲荷神社・宗像神社・梨本神社
        柿本神社・天満宮・木之山神社


上古大和国城上郡三諸山に座す大神々社。大物主神の六世の孫、大多田泥古の末裔、大神朝臣という者、此地に転居し本社を崇祀するという。


由緒

本社は延喜式(今より約一千百年前)神名帳に記載された由緒ある神社であります。奈良朝末期大和國城上郡三輪山鎮座の大神神社の御分神を大神の朝臣と云う人が土師の森と稱せられる比の地に勧請し本社を崇祀すと伝えられ創建の年代は詳らかではないが上古以来備前の国の著名な神社として数えられています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




大神神社

この神社は、国鉄・山陽本線東岡山駅から北々西へ約2Km、岡山市営東岡山住宅団地のすぐ西方の、岡山市四御神字土師之森381番地にある。もと郷社。
この神社は、古くは土師宮と呼ばれ、現社地の背後にある惣堂山の頂上に祭られていたという。現在地へいつ移されたのかは、不詳である。延喜式神名帳には「大神神杜四座」と記されており、四御神という地名はこれに由来するといわれる。
祭神は、大物主命(饒速日尊の別称)、大穴牟遅命(大国主尊の別名)、少名毘古那命(大国主尊の出雲の国造りを補佐した人)、三穂津姫命(多紀理姫命の別名。大国主尊の后)の四柱とされている。古代には国中の最高位の社格をもっていた、日本最古の神社の一つである、現・奈良県桜井市にある大神神社(延喜式名神大社。もと官幣大杜)の祭神三柱を勧請して、これに大国主尊の后である三穂津姫を加え祭ったとされる。
社殿は、かなり広い境内の中央部に、南面して建てられており、本殿は、一間社、流れ造り銅板葺き(もとは桧皮葺き)である。
境内の末社には、若宮杜、柿本神社、木野山神杜、天満宮、稲荷神社、八幡宮、御崎宮、梨本神社、宗像神社の九社がある。かつては“土師の森”と呼ばれていた境内地も、周辺部に押し寄せる開発の波によって、昔日の荘厳さが次第に失われてきている。

社頭掲示板



大神神社

平安時代の初期(西暦927年)編集された延喜式(えんぎしき)神名帳に備前国二十六座の内、上道郡四座として「大神神社四座」の名が見え千年以上続く由緒ある神社です。大正14年編纂された「特選神名牒」という延喜式神名帳の注釈書によると、奈良県桜井市三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)の三座の神を遷し奉り大国主命の后神三穂津姫神を合せ奉り大神神社(おおがじんじゃ)として祭られたとの記述があります。
氏子の間の古来からの言い伝えとしても同じ様な事が語り継がれてきました。明治28年社司の書き物に次の文章があります。『本社創立・由緒トモ詳カニ得テ考ウ可カラズトイエドモ、古老ノ口碑ニ存スルニ上古大和国城上郡三諸山ニ座ス大神神社大物主神ノ六世ノ孫大多田泥古神ノ末裔大神朝臣ナル者此地ニ転居シ本社ヲ崇祀ス(其神璽四柱ナルヲ以テ此地ヲ四御神ト名ヅクト云ウ)』
神社の鎮座地についても定かではありませんが、社司は『今ノ社地ヨリ五町バカリ東北、松山ト云ウ所ニ古ノ社地アリ、其後神妙ノ事アリテ、今ノ所ニ遷ス。中頃火災アリテ記録・神宝・皆消失ス。末社ニ松尾御崎ノ社アリ。天神鎮座以前ヨリ地主ノ神ト言ウ。其頃ハ此村ヲ土師村トイウヨシ』という記述を残しています。
本殿の庇(ひさし)に掲げてある神額(しんがく)には【土師社(はじのやしろ)】と刻まれています。又本殿の扉の裏に墨書で文化11年(西暦1814)とあるので今の本殿は江戸時代の末頃建てられた事が分かります。
手水舎(てみずや)の大きな石の手洗鉢に延享元年(西暦1744)の字が彫りこまれてあるので少なくとも徳川八代将軍吉宗の頃には現在地に鎮座されていたと推察できます。

公式HP



大神神社

本神社は延喜式神名帳に備前国26座の内、上道郡大神神社4座と記載されている。創立年月は詳でないが、上古以来備前国の由緒ある神社である。
慶長年間(1596年〜1615年)の社領は一町七反八畝九歩とある。現在では境内地を残すのみである。近年四御神付近の住宅地化・団地化とともに氏子の数も急速に増加している。

岡山県神社庁



大神神社

車塚古墳よりおりて、団地の前の道路を東へ300mほど行った道路沿いの北側の山裾に社地を広げているのが大神神社です。延喜式神名帳(醍醐天皇時代901〜923年に国中の神社を調査)に大神神社四座と記載されています。四御神と言われる地名も、大物主神(大国主命)以下四神を祭神としたところから由来したと考えられています。社記によると初めは、東尾根惣堂山の山上(138m)あたりにまつられていたらしいです。社地内には、近世の建造物と思われる随神門、本殿、拝殿などがあり、手入れもよく行き届いています。また、もともと南方にまつられていた末社である柿本神社・梨本神社も境内の小社にまつられています。境内東側を南方へ馬場道が通じているが、その途中に、天保2年(1831)辛卯4月吉日と年記のある鳥居と備前焼のこま犬一対が建立されています。

岡山市の歴史みてあるき〔岡山市遺跡調査団編集昭和52年3月〕



大神神社について

由緒沿革 本神社は、延喜式神名帳(927年に完成、今から1080年程前のこと)に備前国26座のうち、上道郡大神神社四座と記載されている由緒ある神社である。現在の境内地の面積は、約950坪程であるが慶長年間の記録には社領一町七反八畝九歩とあり、広大な田畑を有していた。戦後、神社周辺の宅地造成が急速に進み氏子戸数も千百戸をこえるようになった。

社頭掲示板



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