もとは龍天山と並ぶ鳥ケ仙の頂上に南面して祭られていたが、沖合いの瀬戸内海で難船などの厄事が次ぎつぎに起きるので、占ってみたところ、この山の布勢神のためと分かったために、北向きの地で、七曽根・七谷ある地を探して移し祭ったのが現在の布勢神社である、という伝説がある。 |
布勢神社 この神社は、国鉄・津山線金川駅から県道・仁堀中〜御津線を北東へ約15Km、鴨神社のある馬場地内からは県道・赤穂〜建部線を北へ1Kmほど行ったところの、赤磐郡吉井町仁堀西字布施谷1027番地にある。もと郷社。 この神社は、もとは龍天山と並ぶ鳥ケ仙の頂上に南面して祭られていたが、沖合いの瀬戸内海で難船などの厄事が次ぎつぎに起きるので、占ってみたところ、この山の布勢神のためと分かっただめに、北向きの地で、七曽根・七谷ある地を探して移し祭ったのが現在の布勢神社である、という伝説がある。 祭神は、大穴牟遅尊(大国主尊の別名)とされているが、ほかに大彦命(第八代孝元天皇の第一子。阿部氏・膳部氏の祖)とする説や、大己喜命・大彦命・天鈿女命の三柱とする説などがある。大正4年(1915)には、同地域内にあった天津神杜(祭神・天御中主尊)、熊野神社(祭神紀州熊野神)、八幡宮(祭神・仲哀天皇、応神天皇、神功皇后)を相殿に合祀した。 社殿は、布施谷の山裏(北側)に東面して建てられており、本殿は、正面三間・側面二間、流れ造り銅板葺き(もとは桧皮葺き)で、「寛文9己酉年12月朔日所作大工藤原朝臣西勢実村六左衛門」と書かれた棟札がある。(寛文9年=1669) 社頭掲示板 |
布勢神社 本神社は延喜式内の旧社。古伝に垂仁天皇の御字、南海の渡船屡々転覆の難があり、帝、博士に命じて、占わしめ給うに、「こは吉備の国布勢大明神の神威なり、社殿を七谷七畝の山麓に遷し、北面に勧請ありたし。」と奏上した。よって現在の山麓の地に勧請し、社殿を造営したと伝えている。寛文9年に再建。池田光政公が、本殿を造営した。仁堀庄十ヶ村の大社で、明治6年に郷社に列せられた。 岡山県神社庁 |