宗形神社
むなかたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】宗形神社 備前国 赤坂郡鎮座

   【現社名】宗形神社
   【住所】岡山県赤磐市是里3235
       北緯34度55分53秒、東経134度2分58秒
   【祭神】多紀理比売命 市寸島比売命 田寸津比売命
   【例祭】10月16日近い日曜日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】崇神天皇の御宇筑前国より勧請
       慶長9年(1604)三石二斗の社領
       永禄5年(1562)8月16日造営
       貞享5年(1688)5月16日造営
       明治14年6月15日郷社
       明治14年12月22日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       幣殿・拝殿・随神門・神庫・社務所

   【境内社】稲荷神社・瀧神社

仁徳天皇は吉備国海部直の娘黒比売を寵愛し、吉備国山方に幸行された。黒比売は帝を当社に奉迎し方物を採り、歓饗し奉った。帝は喜び「やまかたに、まけるあをなもきひひとゝ、ともにしつめはたぬしくもあるか」と詠んだ。是より以降、今に至る迄諸人挙て山方の大宮と称すると云う。


宗形神社

宗形神社は、延喜式神名帳にも記載されている備前国の古社の一つで、宗形の三女神を祭っており、浦上宗景が永禄年間に再建したことが棟札に書かれている。付近には縦穴住居の遺跡や須恵器等の埋蔵物の出土が多く、古事記に記載されている仁徳天皇と黒姫の伝説もあります。また、この社殿を取り巻く社叢は、原生に近い姿で良く保存されており、上層にはアカガシ、モミが優占し、下層にはユズリハ、アオキ、ヤブツバキ、カクレミノ、ヤブコウジ、チトセカズラなどが生育しています。(県指定郷土記念物)
環境庁・岡山県

社頭掲示板



宗形神社

この神社は、片上鉄道・周匝駅から西北西へ約六キロm、古井町役場の西方の字相坂から、道幅の狭い、急匂配で力ーブ続きの町道を北西方面に上がり切った吉備高原上の、赤磐郡吉井町是里3235番地にある。もと県社。
この神社は、創立年代は不祥であるが、社伝によれば、第10代・崇神天皇の時代(4世紀ごろ)に、筑前国(現・福岡県)の宗像神社を勧請したとしている。また、第16代・仁徳天皇が、寵愛していた妃の黒日売のあとを辿って吉備田に行幸されたとき、黒日売は天皇をこの神社に泰迎して饗応したので、それ以降、里人から"山方の大宮"と称されるようになったという伝承もある。
祭神は、宗像三神の多紀理比売命、多岐津比売命、市寸島比売命であるが、中心神は市寸島比売命である。このほか、明治43年(1910)に合祀した近郷八社の祭神(大己貴命、大日霊命、豊宇気比売命、須佐之男命、迷玉男命、事解之男命、大山咋命、伊邪那美命、菅原神)を加え、現在では十二柚となっているが、このうち迷玉男命は須佐之男命の別称であり、事解之男命と大山咋命はともに饒速日尊の別称であるので、祭神は十柱ということになる。
社殿は、束面して建てられており、本殿は、正面三間・側面二間、流れ造り・銅板葺きで、周囲に花山岡岩製の玉垣が巡らされている。境内の末祉には、稲荷神社など八杜がある。



宗形神社

當社は人皇十代崇神天皇の 御宇勧請にして式内の舊社なり。人皇六代仁徳天皇吉備國海部直女黒比賣を寵し、本國山方に幸行さるゝや黒比賣帝を當社に奉迎し方物を採り、歓饗し奉る。帝欣然御製に”やまかたに、まけるあをなもきひひとゝ、ともにしつめはたぬしくもあるか”と詠し給へり。是より以降、今に至る迄諸人擧て山方の大宮と稱する所以なり。當時、帝より宗形神社神領として神地三、四町、神戸若干を附置かる。依て今に其地名を京免及神戸と呼ぶ。後世慶長8年池田忠繼公、備前に封せらるゝや深く當社を崇敬し、同9年検地の節、本村の内中田二反、高三石貳斗社領として附置かれ、明治4年に至りて止む。加之歴代の皇室御崇敬の餘り神位従四位上に叙せられ、後世一位に昇進贈位に預る。現今の社殿は貞享4年8月28日著手、同5年5月16日落成(棟札)の建築にして、氏子及大氏人民の協力造営に係り、當時の國主池田綱政公より再建費として玄米拾石下賜せられたり。往古、氏子は七十五ヶ村ありて、其區域西南は本郡高月村大字牟佐に至り、東北は津山市小桁に至れりと云ふ。故を以て古今古式祭には社家(當家)より神酒七十九樽・神饌七十五膳・神餅七十五臺(河見社(當)より各四十、山方社(當)より各三十五)、甘酒貳瓶を献供す。これ往古よりの舊例にして年々欽行し、舊式を廢することなし。明治14年6月15日郷社に、同年12月22日縣社に昇格せらる。」

神社明細書(昭和27)



宗形神社

当社は人皇十代崇神天皇の御宇勧請にして式内の旧社なり人皇十六代仁徳天皇吉備國海部直女黒比費を寵し本國山方に幸行さるるや黒比費帝を当社に奉迎し方物を採り敬饗し奉る帝欣然御製にrやまかたにまけるあをなもきびびとともにしっめばたぬしくもあるか」と詠し給へり、是より以降今に至るまで諸人挙げて山方の大宮と称する所以なり、当時帝より宗形神社神領として神地三四町神月若干を附置かる、依て今に其の地名を京免及神戸と呼ぶ、後世慶長8年池田忠継公備前に封せらるるや深く当社を崇敬し全九年検地の節本村の内中田二反高三石弐斗社領として附置かれ明治4年玉りて止む、加之歴代の皇室御崇敬の余り神付従四位上に叙せられ後正一位に昇進贈位に預かる、現今の社殿は貞享4年8月28日着手同5年5月16日落成(棟札)の建築にして氏子及大氏人民の協力造営に係り当時の国主池田綱政公より再建費として玄米捨石下賜せられたり、往古氏子は七十五ケ村ありて其区域西南は旧赤磐群島月村(現岡山市)大字牟佐に至り東北は旧久米南條郡福岡村(現津山市)大字小布に至れりと云ふ、故を以て古へより古式祭には社家より神酒七十五樽・神韻1七十五膳・神餅七十五台・甘酒弐瓶を献供す、(現在は神酒二斗五弁・神僕七十五膳・神餅は分五合とし七斗を餅投げとしている)、明治14年縣社に昇格せらる。(現在一般的には社格は不問)
・鳥居岡山県指定重要文化財(建造物)・本殿赤磐市指定重要文化財(建造物)

岡山県神社庁



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